譯で、甚だ信用がなくて閉口した。
 東京化學會で私が(「オリザニン」は脚氣に效くだらう」)と述べたことを、當時醫界の大立者だつた某博士が傳へ聞かれて「鈴木が脚氣に糠が效くと云つたさうだが、馬鹿げた話だ、鰯の頭も信心からだ、糠で脚氣が癒るなら、小便を飮んでも癒る……」と、或る新聞記者に話されたことがあつた。
 其後私が同博士に逢つた時「君が脚氣の原因を見付けたといふことを人から聞いたが、それは嘘だらうと云つてやつた」と私に云はれた。私が醫者でも藥學者でもないから、脚氣などが判るもんかと思はれたのであらう。
 程經て、私が青山の農業大學へ教へに行つた時のこと、途で一人の學生が他の學生の肩につかまつて來るのを見た。どうしたんだと聞いたら、脚氣で動けないのだが、今日は試驗があるから助けて學校へ連れて來たといふ。それで私が藥をやるからといつて、直ちに三共會社から「オリザニン」を二瓶取り寄せて、くれてやつた。すると二、三日後にその學生が私の宅までやつて來て、先生に藥を貰つて飮んだところが、不思議に早く癒つた、自分は青山の四丁目に下宿して居るが、今日は御禮に來たと云つて、普通の人の樣に、歩き方も確かであつた。その時分は電車もなかつたので、無論往復一里餘も徒歩だつたのである。その學生は一瓶で癒つたから、殘りの一瓶は大切に保存して置くと云つて居た。
 もう一つ、私の郷里の青年が脚氣になつたので、國に歸る爲に出發した處、汽車の中で衝心して、已むなく途中で下車し、小田原の病院に入つたが、危篤だから直ぐ來いといふ電報を、私の隣家の知人の許に寄越した。その時私は「オリザニン」を二瓶持たせて、院長と相談の上、服用させてくれと頼んだ。ところが、二、三日ですつかり輕快し、一週間ばかりで國へ歸つた。患者の方では、意外の效果に驚いたといつて、感謝の手紙を寄越したが、院長は私の與へた藥が效いたとは云はなかつたやうだ。
 また或時、私の實驗室の研究生が理髮店に行つたところ、奧で何だか大騷ぎをして居るので理由を訊くと、主人が脚氣衝心を起して悶へ苦んで居るのだといふ。その時、研究生は恰度ポツケツトに「オリザニン」を入れて居つたので、「これは脚氣に良い藥だ、眼の前で服用して見ろ」といつて、一瓶を半分ばかり服用させた。すると三十分ばかりの内に、今まで非常に苦悶して居つた病人がケロリと平靜になつたので、翌日までに全部服用させたら、全快して、大に感謝されたといふことであつた。
 そんな報告は、澤山集めて居つたが、自分が醫者でないから、發表する事が出來なかつた。

脚氣の原因確定さる
 明治四十一年に、陸軍に脚氣調査會が設立せられ、同四十五年頃より、糠が本當に效くかどうかを試驗することゝなつたが、それでも某醫學博士などは、糠の水浸液を煮沸して脚氣患者に試驗したが、何等效力はなかつたと云はれた。
 そんな風に、なか/\議論が片づかなかつた。これは結局、ヴィタミンBの強力なものを製し得なかつたのと、與へる分量が少かつた爲であることが、後になつて判明した。強力の製品を多量に與ふれば、奇效を奏するのである。
 大正七、八年頃、ヴィタミン研究が歐米に於て盛んになり、その反響が再び日本に傳はるに及んで、日本の醫學者も、この問題を眞面目に考へるやうになつた。なかんづく島薗順次郎博士は、その頃京大に居られて、私の製法によつて自ら強力「オリザニン」を製し、多數の脚氣患者に試驗し、また衝心性の重症患者にも試みて好成績を得、愈々脚氣の主原因はヴィタミンBの缺乏であると斷定された。
 これと前後して慶應大學の大森憲太博士も、數人の助手や看護婦などにヴィタミンBの少い食物を與へて人工的に脚氣を起さしめ、これにB製劑を與ふれば癒ることを實驗し、醫界の注意を惹いた。もつとも、それより前(一九一三年)ベルリン高等農學校でツンツ教授の助手モスコースキー氏が、自身にBの少い食物を攝り、二百餘日の後、脚氣樣の重患に陷つた際、糠の浸液を飮んで恢復したとて、その臨床報告を發表して居る。
 併し氏の食物は、絶對のB缺乏食ではなかつた。またその症状が日本の脚氣とは異なる點があるといふので、日本の醫學者は餘り信用しなかつた。
 兎に角、脚氣問題は幾多の波瀾を經て、遂にヴィタミンB缺乏説に歸着したやうである。それがために、B製劑が續出して、現時は數十種類にも達する有樣である。

化學者の大收獲
 私が四十四年に製出した強力「オリザニン」は未だ化學的純粹とは云はれなかつた。鳩の白米病を治癒するのに五―十ミリ瓦を要したのである。それを結晶状に抽出しようと企て、大嶽、島村、鈴木(文助)その他多數の諸氏の助力を得て盛んに研究したのであるが、なか/\その目的を達せなかつた。
 その内、大正三年となつて、歐洲大戰が勃發し、我國では染料や藥品の輸入が杜絶して大騷ぎをした。それで私等も化學者として默視するに忍びず、暫く「オリザニン」の研究を中止して、實驗室の總動員を行ひ、先づ酒の防腐劑サルチール酸を造り、次で酒の※[#「酉+元」、第3水準1−92−86]に入れる乳酸やサル※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルサン(六〇六號)の製造に成功し、またアンチピリンや人造藍などまで試みた。そんな事で四、五年は經過した。その間にまた私は二度も大患に罹つた。
 それで大正九年頃から再び「オリザニン」の研究を始めることゝなり、大嶽君が主としてこれを擔當し、糠と酵母中のあらゆる成分を片づける意氣込で多數の結晶成分を抽出し、その中には新奇なものも澤山あつたが、肝腎なBは、なか/\結晶とならなかつた。併し昭和四年になつて初めて二センチ瓦ばかりの結晶を得たので、大に勇氣を得、更に一年餘を費やし、翌五年の夏頃漸く〇・三瓦ばかり、立派な結晶を得、動物試驗を行つて有效であることを確めた。
 この結晶は〇・〇二ミリ瓦位で鳩の白米病を治す力があるから、人間には一ミリ位で充分效くものと思はれる。この結果を、昭和五年十一月、日本學術協會で大嶽君が發表したので、引續き元素分析やその他の化學的性質を試驗した。
「オリザニン」の結晶を一瓦も作るには、少くとも數百貫目の糠より出發せねばならないが幸に三共會社から注射用の強力「オリザニン」を多量に供給されたから出來たのである。一方また大嶽君の實驗の巧妙なのと、根氣のよいのには驚くべきものがあつた。
 今後Bの結晶の化學的構造を決定し、これを合成するのは何年かゝるか知らないが、兎に角結晶となつたのは、化學者の一大收獲である。

 脚氣問題を別として、オリザニンが果して榮養上の一新成分であるか、どうかと云ふことも隨分議論があつた、それは動物の榮養を支配する條件が澤山あつて、蛋白の種類とか、分量とか、或は無機成分中、微量のもので見逃して居るものはないかとか、リポイドが必要であるとか、ないとか、いろ/\判らないことが多かつたからである。
 米國でオスボルンやメンデル博士などは一九一四年までヴィタミン不必要を唱へ、ベルリン時代の私の學友アプデルハルデン氏も數年間反證を擧ぐる爲に實驗をやつた。ローマン博士は一九一七年まで頑強にヴィタミン説に反對したものである。兎に角、一つの學説が一般に承認せらるゝのは、なか/\容易のことではない。

ヴィタミンA以下の發見
 ヴィタミンAの發見はBより數年後である。オスボルン博士やマッカラム教授が人工配合飼料で白鼠を飼育する場合に、飼料中にバタを加へるのと、豚脂或は植物油を加へるのとは、動物の發育が非常に違ふことから、バタの中には普通の脂肪以外に何物か有效成分があるであらうと想像して、これを假りに脂溶性ヴィタミンと名づけた。
 併しその本體を捉へたのは我が高橋克己君である。高橋君は大正八年頃から駒場の實驗室でこの成分を研究し、大正十一年に遂に略ぼ純粹の状態に抽出して、これを「ビオステリン」と命名したのである。
 現在では「ビオステリン」中に二つの要素が含まれて居り、その一つは所謂ヴィタミンAで他の一つはDであることが確められた。植物の色素カロチンがAと同樣の效力があることは、瑞典のオイラー教授によつて確められ、また酵母、麥角等より得らるゝエルゴステリンに紫外線を照射すれば、Dが出來ることも、ウィンダウス教授によつて明かにせられた。恐らくカロチンが動物體内に於て還元せられて肝臟中に貯へらるゝものであらう。目下理化學研究所の川上、鷲見等の諸氏が專らこの方の研究をやつて居る。

 ヴィタミンCは最も難物である。これは空氣に觸れても、熱に會つても、直ちに破壞さるゝ故に、手のつけやうがない。保存することも困難である。結晶になるかどうか、今のところ見當がつかない。
 緑茶の中にヴィタミンCが豐富に含まれて居ることは、故三浦政太郎博士が見出したのであるが、昔、和蘭の商船が東洋に來ると、航海中壞血病に罹るものが多いので、これを豫防するために支那から茶を買つて歸つたといふ記録があることから、三浦君は日本の緑茶を試驗したところ、非常に多くのヴィタミンCの含まれて居ることが判つた。
 中央茶會議所では大にこれを宣傳して、茶の販路擴張をやつてゐる。内地の需要は確かに多くなつたと云ひ、二、三年來、ロシヤへも輸出せらるゝやうになつて、昨年は六百萬封度を超へた。ノルウエーからも注文があつたといふ。
 この外に、繁殖に必要なヴィタミンEの試驗も私は二、三年やつた。これは小麥の胚芽の油の中に多く含まれて居り、Aに能く似て居るが、生理作用が全くAとは異なるものである。これは未だ純粹の結晶にはならない。
 各種のヴィタミンは皆それ/″\必要な役目を持つて居り、なくてはならないものであるが、日本の食物ではBが最も缺乏し易い。その次がA・Dであらう。米國ではBは餘り問題にされず小兒のD缺乏が最もやかましくなつて居る。ロシヤではCが問題だ。斯くの如く各國皆趣を異にして居るのは面白いことである。
 ヴィタミンを産業の方面に應用することも澤山ある。余等はこの方面で役に立つことをやりたいと思つて居る。何の研究でもさうだが、かういふ研究は全く根氣が續かなくては駄目である。折角始めても、途中で止めては何にもならない。幸に私は理化學研究所と駒場に、多數の共同研究者を持つて居る。倦まずにやつたならば、今後も何か面白いことが出來るだらう。



底本:「研究の回顧」輝文堂書房
   1943(昭和18)年2月25日初版発行
   1943(昭和18)年11月11日再版発行
初出:「科學知識」科學知識普及會
   1931(昭和6)年2月1日発行
※底本では題名に章番号「一」が付け加えられていますが、独立した一編として取り扱うために省略しました。
※「フヰシャー先生」と「フヰツシャー先生」の混在は、初出誌を参照して「フヰツシャー先生」に統一しました。
入力:小林 徹
校正:大野 晋
2004年12月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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