かえった。私と千代子の視線が会うと思いなしか千代子はニッコリ笑うたようであった。
私は俯伏《うつぶ》して水を眺めた。そこには見る影もない私の顔が澄んだ秋の水鏡に映っている。欄干のところに落ちていた小石をそのまま足で水に落すと、波紋はすぐに私の象《かた》を消してしもうた。
波紋のみだれたように、私の思いは掻《か》き乱された。
あの女《ひと》はいま乳母と私について何事を語って行ったろう、あの女は何を笑ったのであろう、私の見すぼらしい姿を嘲笑《あざわら》ったのではあるまいか、私の穢《むさ》くるしい顔をおかしがって行ったのではあるまいか。
波紋は静まって水はまたもとの鏡にかえった、私は俯伏して、自分ながら嫌気のするような容貌《かおつき》をもう一度映しなおして見た、岸に咲きみだれた藤袴《ふじばかま》の花が、私の影にそうて優しい姿を水に投げている。
六
岡田の話では高谷千代子の家は橋を渡って突き当りに小学校がある、その学校の裏ということである。それを尋ねて見ようというのではないけれども、私はいつとはなしに大鳥神社の側を折れて、高谷千代子の家の垣根《かきね》に沿うて足を運んだ。
はるかに火薬庫の煙筒は高く三田村の岡を抽《ぬ》いて黄昏《たそがれ》の空に現われているけれども、黒蛇のような煤煙はもうやんでしまった。目黒川の対岸《むこう》、一面の稲田には、白い靄《もや》が低く迷うて夕日が岡はさながら墨絵を見るようである。
私がさる人の世話で目黒の停車場《ステーション》に働くことになってからまだ半年には足らぬほどである。初めて出勤してその日から私は千代子のあでやかな姿を見た。千代子はほかに五六人の連れと同伴《いっしょ》に定期乗車券を利用して、高田村の「窮行《きゅうこう》女学院」に通っているので、私は朝夕、プラットホームに立って彼女を送りまた迎えた。私は彼女の姿を見るにつけて朝ごとに新しい美しさを覚えた。
世には美しい人もあればあるもの、いずくの処女《おとめ》であるだろうと、私は深く心に思うて見たがさすがに同職《なかま》に聴いて見るのも気羞かしいのでそのままふかく胸に秘めて、毎朝さまざまの空想をめぐらしていた。
ある日のこと、フトした機会《はずみ》から出札の河合が、千代子の身の上についてやや精《くわ》しい話を自慢らしく話しているのを聞いた。彼は定期乗車券のことで毎月彼女と親しく語《ことば》を交すので、長い間には自然いろいろなことを聞き込んでいるのであった。
千代子は今茲《ことし》十七歳、横浜で有名な貿易商正木|某《なにがし》の妾腹に出来たものだそうで、その妾《めかけ》というのは昔新橋で嬌名の高かった玉子とかいう芸妓《げいしゃ》で、千代子が生まれた時に世間では、あれは正木の子ではない訥弁《とつしょう》という役者の子だという噂《うわさ》が高く一時は口の悪い新聞にまでも謳《うた》われたほどであったが、正木は二つ返事でその子を引き取った。千代子はその母の姓を名乗っているのである。
千代子の通うている「窮行女学院」の校長の望月貞子というのは宮内省では飛ぶ鳥も落すような勢力、才色兼備の女官として、また華族女学校の学監として、白雲遠き境までもその名を知らぬ者はないほどの女である。けれども冷めたい西風は幾重の墻壁《しょうへき》を越して、階前の梧葉《ごよう》にも凋落《ちょうらく》の秋を告げる。貞子の豪奢《ごうしゃ》な生活にも浮世の黒い影は付き纏《まと》うて人知れず泣く涙は栄華の袖に乾《かわ》く間もないという噂である。この貞子が世間に秘密《ないしょ》で正木某から少からぬ金を借りた、その縁故で正木は千代子が成長するに連れて「窮行女学院」に入学させて、貞子にその教育を頼んだ。高谷千代子は「窮行女学院」のお客様にあたるのだ。
賤《いや》しい女の腹に出来たとはいうものの、生まれ落ちるとそのままいまの乳母の手に育てられて淋しい郊外に人となったので、天性《うまれつき》器用な千代子はどこまでも上品で、学校の成績もよく画も音楽も人並み優れて上手という、乳母の自慢を人のいい駅長なんかは時々聞かされるということであった。
私は始めて彼女のはかない運命を知った。自分ら親子の寂しい生活と想いくらべて、やや冷めたい秋の夕を、思わず高谷の家の門のほとりに佇んだ。洒然《さっぱり》とした門の戸は固く鎖《とざ》されて、竹垣の根には優しい露草の花が咲いている。
七
次の日の朝、私は改札口で思わず千代子と顔を合わせた。私は千代子の眼に何んと知れぬ一種の思いの浮んだことを見た、私は千代子のような美人が、なぜ私のような見すぼらしい駅夫|風情《ふぜい》に、あんな意味《こころ》のありそうな眼つきをするのだろうと思うとともに今朝もまた千代子を限りなく美しい人と思う
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