寄せる水の音、恐ろしい獣が深傷《ふかで》にうめくような低い工場の汽笛の声、さては電車の遠く去り近く来たる轟《とどろ》きが、私の耳には今さながら夢のように聞えて、今見た千代子の姿が何となく幻影のように思いなされた。
「おい、汽車が来たようだよ」という小林の声に私は急いで手荷物を纏めてプラットホームに出た。
いつの間に来たのか乗客はかなりにプラットホームに群れている。蘆の姿も千代子の姿もさらに見えない、三等室に入って窓の際に小林と相対《あいむか》って座《すわ》った。一時騒々しかったプラットホームもやがて寂寞《ひっそり》として、駅夫の靴の音のみ高く窓の外に響く、車掌は発車を命じた。
汽笛が鳴る……
煙の喘ぐ音、蒸汽の漏れる声、列車は徐々として進行をはじめた。私はフト車窓から首を出して見た。前の二等室から、夜目にも鮮やかな千代子の顔が見えて、たしかに私の視線と会うたと思うと、フト消えてしまった。
急いで窓を閉めて座に就くと、小林は旅行鞄の中から二個《ふたつ》の小冊子を出して、その一部を黙って私に渡した。スカレット色の燃えるような表紙に黒い「総同盟罷工《ゼネラルストライキ》」という文字が鮮やかに読まれた。小林の知己《しりびと》でこのごろ政府からひどく睨まれている有名な某文学者の手になった翻訳である。一時京橋のある書肆《しょし》から発行されるという評判があって、そのまま立消えになったのが、どうしたのか今配布用の小冊子になって小林の手にある。巻末には発行所も印刷所も書いてない。
汽車は今|追懐《おもいで》の深い蛇窪村の踏切を走っている。
底本:「日本の文学 77 名作集(一)」中央公論社
1970(昭和45)年7月5日初版発行
1971(昭和46)年4月30日再版発行
初出:「新小説」
1907(明治40)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5−86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:土屋隆
2007年2月13日作成
青空文庫作成ファイル:
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