けたものか、よほどの変物であった。頭が割合に大きいのに顎《あご》がこけて愛嬌の少しもない、いわば小児《こども》らしいところの少い、陰気な質であった。学友《なかま》はいつしか彼を「らっきょ」と呼びなして囃《はや》し立てたけれども、この陰欝な少年の眼には一種不敵の光が浮んでいた。
中学へ行ってからのことは駅長は少しも知らなかったそうだ。しかし一しょに行ったものの話では小学時代と打って変って恐ろしい乱暴者《あばれもの》になったそうだ。卒業する時には誰でも小林は軍人志願だろうと想像していたが、彼は上京して東京専門学校で文学を修めた、この間駅長は鉄道学校にいて彼に関する消息は少しも知らなかったが、四年ばかり以前に日鉄労働者の大同盟罷工が行われた時、正気倶楽部《せいきくらぶ》の代表者として現われたのは、工夫あがりの小林浩平であった。
驚いて様子を聞いて見ると、彼は学校を出るとそのまま、父親に手紙をやって「小作人の汗と株券の利子とで生活するのは人間の最大罪悪だ、家産は弟にやる、自分はどうか自由に放任しておいてくれ」という意味を書き送った。父親は非常に驚いて何か不平でもあるのか、家産を弟に譲っては小林家の先祖に対して申しわけがない、ことに世間で親の仕打ちが悪いから何か不平があって、面当てにすることと思われては困るというので、泣くようにして頼んで見たけれど浩平は頑《がん》として聞かなかった、百方《いろいろ》手を尽して見たけれどもそれは全く無駄であった。
村では浩平が気が触れたのだという評判をする者さえあったそうだ。
幾万の家産を抛《なげう》ち、義理ある父母を棄てた浩平はそのまま工夫の群に姿を隠したがいつの間にかその前半生の歴史をくらましてしもうた。彼が野獣のような工夫の団結を見事に造り上げて、その陣頭に現われた時には社会に誰一人として彼の学歴を知っているものはなかったのである。駅長はそのころ中仙道大宮駅に奉職《つとめ》ていて、十幾年かぶりで小林に会見したのであったそうだ。
「君なんぞまだ若気の一途《いちず》に、学問とか、名誉とかいうことばかりを思うのも無理はないけれど、何もそんな思いをして学問をしなくっても人間の尽す道はわれわれの生活の上にも充分あるではないか。
見給え、学問をしてわざわざ工夫になった人さえあるではないか、君! 大いに自重しなくちゃいけないよ、若い者には元気
前へ
次へ
全40ページ中22ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
白柳 秀湖 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング