から」というと紳士は黙って諾《うなず》いた。
「じゃあ君もね」と工夫頭の方を向いて駅長が促した。その親しげなものの言い振りで私ははじめて、二人が知己《しりあい》であるということを知った。
駅長は親切に私をいたわって階壇を昇《のぼ》るとその後から紳士と工夫頭とがついて来た。壇を昇りきると岡田が駆けて来て、
「大槻さんが今すぐに参りますそうで」と駅長の前に呼気《いき》を切りながら復命した。
十一
私はそのまま駅長の社宅に連れて行かれて、南向きの縁側に腰を下すと、駅長の細君が忙わしく立ち働いていろいろ親切に手を尽してくれる。
そこへ罷職軍医の大槻|延貴《のぶたか》というのがやって来て、手当てにかかる。私はジッと苦痛《くるしみ》を忍んだ。
手術はほどなく済んで繃帯も出来た。傷は案外に浅くって一週間ばかりで全治するだろうという話、細君の汲んで来た茶を飲みながら大槻は傍にいた岡田を相手に、私が負傷した顛末《てんまつ》を尋ねると細君も眉《まゆ》を顰《ひそ》めながら熱心に聞いていたが、
「マア、ほんとうに危険《あぶな》いですね、――それにしても藤岡さんがいなけれゃあ、その人は今ごろもうどうなっているか分りませんね」
「何にしろ、すぐ隧道《トンネル》になるのですからね、どうしたって助かるわけはないです」と岡田が口を入れる。
「危険《あぶない》ですな! 汽車も慣れるとツイ無理をしたくなって困るのです」と大槻はいうたが、細君と顔を見合わせて、さて今まで忘れていたように互いに時候の挨拶をする。
大槻は年ごろ五十歳あまり、もと陸軍の医者で、職を罷《や》めてからは目黒の三田村に遷《うつ》り住んで、静かに晩年を送ろうという人、足立駅長とは謡曲の相手で四五年|以来《このかた》の交際《つきあい》であるそうだ。
大槻芳雄というのは延貴の独《ひと》り息子《むすこ》で、少からぬ恩給の下る上に遺産もあるので、出来るだけ鷹揚《おうよう》には育てたけれど、天性《うまれつき》才気の鋭い方で、学校も出来る、それに水彩画がすきでもし才気に任せて邪道に踏み込まなかったならばあっぱれの名手となることだろうと、さる先輩は嘆賞した。けれどもこの人の欠点をいえばあまり画才に依頼しすぎて技術の修練をおろそかにするところにある。近ごろ大槻はある連中とともに日比谷公園の表門に新設される血なまぐさいパノラマを
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