ことをなさるとわたしはまごついてしまいます。まごついていてはわたしはどうして事務を処理することが出来ましょう? さあさあ、お互に頭を明晰にしましょう。もしあなたが今、例えばですね、九ペンスの九倍はいくらになるか、あるいは二十ギニーは何シリングかということを、言ってみて頂ければ★、よほど気が引立つんですがねえ。わたしだってあなたのお心の工合にもっともっと安堵が出来るというものですが。」
 こう頼んだのに対して直接には答えなかったけれども、彼女は、彼がごく穏かに彼女を起してやった時に、ジャーヴィス・ロリー氏に多少の安心を与えるくらいに、静かに腰を掛けたし、ずっと彼の手頸を握っていた手を今までよりももっとしっかりさせたのであった。
「それでよろしい、それでよろしい。さあ、しっかりして! 事務ですよ! あなたは事務を控えているのです。有益な事務をね。|マネット嬢《ミス・マネット》、あなたのお母さまはあなたに対してそういう御方針をお執りになったのです。で、お母さまがお亡くなりになり、――御傷心のためかと思いますが、――その時あなたは二歳で後にお遺されになりましたのですが、お母さまは御自分では何の甲斐《かい》がなくてもお父さまの捜索を決して怠られなかったのに、あなたには、お父さまが牢獄の中でまもなく死なれたのだろうか、それともそこで永い永い年月《としつき》の間痩せ衰えていらっしゃるのだろうかと、どちらともはっきりわからずに過すというような黒い雲もささずに、花のように、美しく、幸福に、御生長になるようになさいましたのです。」
 こう言いながら、彼は、房々と垂れている金髪を、感に堪えないような憐みの情をもって見下した。あたかもその髪がもう既に白くなっているのかもしれぬと心の中で思い浮べてでもいるかのように。
「御承知のように、御両親には大した御財産はございませんでしたし、お持ちになっていらしたものは皆お母さまとあなたとのお手に入りました。お金《かね》にしても、その他《ほか》の何かの所有物にしても、今さら新しく発見されるものは何一つなかったのです。しかし――」
 彼は自分の手頸がいっそうしっかりと握り締められるのを感じたので、言葉を切った。これまで特に彼の注意を惹いていた、そして今では動かなくなっている、額の例の表情は、ますます深まって苦痛と恐怖との表情になっていた。
「しかしあの方《かた》が見つかったのです。あの方《かた》は生きてお出でになるのです。さぞひどく変っていらっしゃることでしょう。ほとんど見る影もなくなっておられるかもしれません。そんなことのないようにと思ってはいるのですが。とにかく、生きておられるのです。あなたのお父さまはパリーで昔の召使の家に引取られてお出でになるので、それでわたしたちはそこへ行こうとしているところなのです。わたしは、出来れば、お父さまであるかどうかを確めるためにですし、あなたは、お父さまを生命と、愛と、義務と、休息と、慰安とに復《かえ》さしておあげになるためにです。」
 身震いが彼女の体に起り、それが彼の体に伝わった。彼女は、まるで夢の中ででも言っているように、低い、はっきりした、怖《お》じ恐れた声でこう言った。――
「あたしはお父さまの幽霊に逢いにゆくのですわ! お逢いするのはお父さまの幽霊でございましょう、――ほんとのお父さまじゃなくって!」
 ロリー氏は自分の腕に掴まっている手を静かにさすった。「さあ、さあ、さあ! もうわかりましたね、わかりましたね! 一番よい事も一番悪い事ももうすっかりあなたにお話してしまったのですよ。あなたはあのお気の毒なひどい目に遭われた方《かた》のおられるところをさしてよほど来ておられるのです。そして、海路の旅が無事にすみ、陸路の旅も無事にすめば、すぐにその方《かた》の懐《なつか》しいお傍《そば》へいらっしゃれましょう。」
 彼女は、囁き声くらいに低くなった前と同じ調子で、繰返して言った。「あたしはこれまでずっと自由でしたし、ずっと幸福でしたのに、でもお父さまの幽霊は一度もあたしのところへ来て下さいませんでしたわ!」
「もう一|事《こと》だけ申し上げますと、」ロリー氏は、彼女の注意を惹きつけようとする一つの穏かな手段として、その言葉に力を入れて言った。「あの方《かた》は見つかりました時には別の名前になっておられました。ほんとうのお名前は、永い間忘れておられたか、それとも永い間隠しておられたのでしょう。今それがどっちだか尋ねるということは、無益であるよりも有害でしょう。あの方《かた》が何年も見落されておられたのか、それともずっと故意に監禁されておられたのか、どちらか知ろうとすることも、無益であるよりも有害でしょう。今はどんなことを尋ねるのも、無益どころか有害でしょう。そういうことをするのは危険でしょうから。どこででもどんなのにでも、その事柄は口にしない方がよろしいでしょう。そして、あの方《かた》を――何にしてもしばらくの間は――フランスから連れ出してあげる方がよろしいでしょう。イギリス人として安全なわたしでさえ、またフランスの信用にとって重要であるテルソン銀行でさえ、この件の名を挙げることは一切避けているのです。わたしは自分の身の※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りに、この件のことを公然と書いてある書類は一片も持っておりません。これは全然秘密任務なのです。わたしの資格証明書も、記入事項も、覚書も、『甦《よみがえ》る』という一行の文句にすっかり含まれているのです。その文句はどんなことでも意味することが出来るのです。おや、どうしたんですか! お嬢さんは一|言《こと》も聞いていないんだな! |マネット嬢《ミス・マネット》!」
 全くじっとして黙ったまま、椅子の背に倒れかかりもせずに、彼女は彼の手の下で腰掛けて、全然人事不省になっていた。眼は開いていてじっと彼を見つめており、あの最後の表情はまるで彼女の額に刻《きざ》み込まれたか烙《や》きつけられたかのように見えた。彼女が彼の腕にひどくしっかりと掴まっているので、彼は彼女に怪我させはしまいかと思って自分の体を引き離すのを恐れた。それで彼は体を動かさずに大声で助力を求めた。
 すると、まるで赭《あか》い顔色をして、髪の毛も赭く、非常にぴったりと体に合っている型の衣服を著て、頭には親衛歩兵の桝型帽、それもずいぶんの桝目のもの★のような、あるいは大きなスティルトン乾酪《チーズ》★のような、実に驚くべき帽子をかぶっているということを、ロリー氏があわてているうちにも認めた、一人の荒っぽそうな婦人が、宿屋の召使たちの先頭に立って部屋の中へ駈け込んで来て、逞しい手を彼の胸にかけたかと思うと、彼を一番近くの壁に突き飛ばして、その可哀そうな若い淑女から彼を引き離すという問題をすぐさま解決してしまった。
(「これはてっきり男に違いないな!」とロリー氏は、壁にぶっつかると同時に、息《いき》もつけなくなりながら考えた。)
「まあ、お前さんたちはみんな何てざまをしてるんだね!」とその女は宿屋の召使たちに向って呶鳴りつけた。「そんなところに突っ立ってわたしをじろじろ見てなんかいないで、どうしてお薬やなんぞを取りに行かないの? わたしなんか大して見映《みば》えがしやしないよ。そうじゃないかい? どうしてお前さんたちは要《い》るものを取りに行かないんだよ? 嗅塩《かぎしお》と、お冷《ひや》と、お酢《す》と★を速く持って来ないと、思い知らしてあげるよ。いいかね!」
 それだけの気附薬を取りに皆が早速方々へ走って行った。すると彼女はそうっと病人を長椅子《ソーファ》に寝かして、非常に上手に優《やさ》しく介抱した。その病人のことを「わたしの大事な方《かた》!」とか「わたしの小鳥さん!」とか言って呼んだり、その金髪をいかにも誇らかに念入りに肩の上に振り分けてやったりしながら。
「それから、茶色服のお前さん!」と彼女は、憤然としてロリー氏の方へ振り向きながら、言った。「お前さんは、お嬢さまを死ぬほどびっくりさせずには、お前さんの話を話せなかったの? 御覧なさいよ。こんなに蒼いお顔をして、手まで冷くなっていらっしゃるじゃありませんか。そんなことをするのを[#「そんなことをするのを」に傍点]銀行家って言うんですか?」
 ロリー氏はこの返答のしにくい難問に大いにまごついたので、ただ、よほどぼんやりと同情と恐縮とを示しながら、少し離れたところで、眺めているより他《ほか》に仕方がなかった。一方、その力の強い女は、もし宿屋の召使たちがじろじろと見ながらここにぐずぐずしていようものなら、どうするのかは言わなかったが何かを「思い知らしてやる」という不思議な嚇《おど》し文句で、彼等を追っ払ってしまってから、一つ一つ正規の順序を逐うて病人を囘復させ、彼女を宥《なだ》め賺《すか》してうなだれている頭を自分の肩にのせさせた。
「もうよくなられるでしょうね。」とロリー氏が言った。
「よくおなりになったって、茶色服のお前さんなんかにゃ余計なお世話ですよ。ねえ、わたしの可愛いい綺麗なお方!」
「あなたは、」とロリー氏は、もう一度しばらくの間ぼんやりした同情と恐縮とを示した後に、言った。「|マネット嬢《ミス・マネット》のお伴をしてフランスへいらっしゃるんでしょうな?」
「いかにもそうありそうなことなのよ!」とその力の強い女が答えた。「でも、もしわたしが海を渡って行くことに前からきまってるんなら、天の神さまがわたしが島国《しまぐに》に生れて来るように骰子《さいころ》をお投げになるとあんたは思いますか?」
 これもまたなかなか返答のしにくい難問なので、ジャーヴィス・ロリー氏はそれを考えるために引下ることにしたのであった。
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    第五章 酒店

 大きな葡萄酒の樽が街路に落されて壊れていた。この事故はその樽を荷車から取り出す時に起ったのであった。樽はごろごろっと転がり落ちて、箍《たが》がはじけ、酒店の戸口のすぐ外のところの敷石の上に止って、胡桃の殻のようにめちゃめちゃに砕けたのだ。
 近くにいた人々は皆、自分たちの仕事を、あるいは自分たちの無為を一時中止して、その葡萄酒を飲みにその場所へ走って行った。街路のごつごつした不揃いな敷石は、四方八方に向いていて、それに近づくあらゆる生物《いきもの》を殊更《ことさら》に跛《びっこ》にしてやろうというつもりのもののように思われたが、その敷石が流れた葡萄酒を堰き止めて、小さな水溜りを幾つも作っていた。その水溜りは、それぞれ、その大きさに応じて、そこへ来て押し合いへし合いしている群集に取巻かれた。男たちの中には、跪いて、両手を合せて掬《すく》って、その葡萄酒が指の間からすっかりこぼれてしまわないうちに、自分で啜ったり、自分の肩の上に身を屈めている女たちにも啜らせてやろうとしたりする者もあった。中には、男も女も、欠けた陶器の小さな湯呑で水溜りを掬ったり、女たちの頭から取った手拭までも浸して、それを幼児の口の中へ絞り込んでやったりする者もあった。また、葡萄酒が流れてゆくのを堰き止めようと、小さな泥の堤防を築く者もいた。上の方の高い窓から見物している者たちに教えられて、あちこちと走り※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]って、新しい方向に流れ出してゆく葡萄酒の小さな流れを遮り止める者もいた。渣滓《おり》の滲み込んでいるじくじくした樽の破片にかじりついて、酒で朽ちたじめじめした木片をさもうまそうに舐めたり、噛みさえしたりする者もいた。葡萄酒の流れ去る下水は一つもなかった。それで、それがすっかり吸い上げられたばかりではなく、それと一緒にずいぶんたくさんの泥までが吸い上げられたので、この街には市街掃除夫がいたのではなかったかと思われたくらいであった。もっとも、これは、誰でもこの街のことをよく知っている人が、そういう市街掃除夫などという者が奇蹟的にもここに現れるということを信ずることが出来たとしてのことであるが。
 笑い声と興がっている声――男たちや
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