脱がせ申すんだぞ。(上等の石炭で火が燃やしてございますよ、旦那。)床屋さんを和合《コンコード》の間へ呼んで来ておあげなさい。さあさあ、和合《コンコード》の間の御用をさっさとするんだよ!」
 その和合《コンコード》の寝室というのはいつも駅逓馬車で来た旅客にあてがわれていたので、そして、駅逓馬車で来た旅客たちはいつも頭の先から足の先までぼってり身をくるんでいたので、その室は、ロイアル・ジョージ屋の人々にとっては、そこへ入って行くのはただ一種類だけの人に見えるが、そこから出て来るのはあらゆる種類のさまざまの人であるという、妙な興味があるのだった。そういう訳で、六十歳の一紳士が、大きな四角いカフスとポケットに大きな覆布《ふた》のついている、かなり著古してはあるが、極めてよく手入れのしてある茶色の服に正装して、朝食をとりに行く時には、別の給仕と、二人の荷持と、幾人かの女中と、女主人とが、和合《コンコード》の間と食堂との間の通路の処々方々に偶然にもみんなぶらぶらしていたのであった。
 食堂には、その午前、この茶色服の紳士より他《ほか》に客はなかった。彼の朝食の食卓は炉火の前へ引き寄せてあった。そして、その火の光に照されながら、食事を待って腰掛けている間、彼は余りじっとしているので、肖像画を描《か》かせるために著席しているのかと思われるくらいであった。
 彼はすこぶるきちんとして几帳面に見え、両膝に手を置き、音の大きな懐中時計は、あたかもかっかと燃えている炉火の軽躁さとうつろいやすさとに自分の荘重さと寿命の永さとを競《きそ》わせるかのように、垂片《たれ》のあるチョッキの下で朗々たる説教をちょきちょきちょきちょきとやっていた。彼は恰好のよい脚をしていて、少しはそれを自慢にしていたらしい。というのは、茶色の靴下はすべすべとぴったり合っていて、地合が上等のものであったし、緊金《しめがね》附きの靴も質素ではあったが小綺麗なものだったから。彼は、頭にごくぴったりくっついている、風変りな小さいつやつやした縮れた亜麻色の仮髪《かつら》をかぶっていた。この仮髪《かつら》は髪の毛で作られたものであろうが、しかしそれよりもまるで絹糸か硝子質の物の繊維で紡いだもののように見えた。彼のシャツ、カラー類は、靴下と釣合うほどの上等なものではなかったが、近くの渚に寄せて砕ける波頭《なみがしら》か、海上遠くで日光にきらきらと光っている帆影ほどに白かった。習慣的に抑制されて穏かになっている顔は、潤《うるお》いのあるきらきらした一双の眼のために、例の一風変った仮髪《かつら》の下で始終明るくされていた。その眼をテルソン銀行風の落著いた遠慮深い表情に仕込むには、過ぎ去った年月の間に、その眼の持主に多少は骨を折らせたものに違いない。彼は健康そうな頬色をしていて、その顔には、皺がよってはいたけれども、憂慮の痕は大して見えなかった。だが、おそらく、テルソン銀行の機密に参与する独身の行員たちというものは、他人の苦労に主としてかかりあっていたのであろう。そして、おそらく、|他人のお古《セカンドハンド》の苦労というものは、|他人のお古《セカンドハンド》の著物と同様に、脱ぐのも著るのも造作のないものなのであろう。
 肖像画を描《か》かせるために著席している人との類似を更に完全にしようと、ロリー氏はうとうとと寐入《ねい》ってしまった。朝食が運ばれて来たのに彼は目を覚された。そして、自分の椅子を食事の方へ動かしながら、給仕に言った。――
「若い御婦人が今日《きょう》ここへ何時《なんどき》来られるかもしれないが、その方《かた》のために部屋を用意しておいてもらいたい。その御婦人はジャーヴィス・ロリーさんはいないかと言って尋ねられるかもしれないし、それとも、ただ、テルソン銀行から来たお方はいないかと尋ねられるかもしれない。そしたらどうか知らせて下さい。」
「は、畏りました。ロンドンのテルソン銀行でございますね、旦那?」
「そうだ。」
「は、承知いたしました。手前どもでは、あなたさまのところの方々《かたがた》がロンドンとパリーの間を往ったり来たりして御旅行なさいます時に、たびたび御贔屓にあずかっております、はい。テルソン銀行では、旦那、ずいぶん御旅行をなさいますようで。」
「そうだよ。わたしどもの銀行は、イギリスの銀行であると同じくらいに、全くフランスの銀行ででもあるようなものだからね。」
「は、なるほど。でも、旦那、あなたさまはあまりそういう御旅行はしつけてお出でになりませんようでございますが?」
「近年はやらない。わたしどもが――いや、わたしが――この前フランスから戻ってから十五年になるよ。」
「へえ、さようでございますか? それでは手前がここへ参りましたより以前のことでございますよ、はい。ここの人たちがここへ参りましたよりも以前のことで、旦那。このジョージ屋はその時分は他《ほか》の人の経営でございました。」
「そうだろうねえ。」
「しかし、旦那、テルソン銀行のようなところになりますと、十五年前はおろか、五十年ばかりも前でも、繁昌していらっしったということには、手前がどっさり賭《かけ》をいたしましてもよろしゅうございましょうね?」
「それを三倍にして、百五十年と言ったっていいかもしれんな。それでも大して間違いじゃないだろうよ。」
「へえ、さようで!」
 口と両の眼とを円くしながら、給仕人《ウェーター》は食卓から一足下ると、ナプキンを右の腕から左の腕へと移して、安楽な姿勢をとった。そして、客の食べたり飲んだりするのを、展望台か望楼からでもするように見下しながら、立っていた。あらゆる時代における給仕人《ウェーター》のかの昔からの慣習に従って。
 ロリー氏は朝食をすましてしまうと、浜辺へ散歩に出かけた。小さな幅の狭い曲りくねったドーヴァーの町は、海の駝鳥のように、浜辺から隠れて、その頭を白堊の断崖の中に突っ込んでいた★。浜辺は山なす波浪と凄じく転げ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]っている石ころとの沙漠であった。そして波浪は己《おの》が欲するままのことをした。その欲するままのこととは破壊であった。それは狂暴に町に向って轟き、断崖に向って轟き、海岸を突き崩した。家々の間の空気は非常に強く魚臭い臭いがして、ちょうど病気の人間が海の中へ浸りに行くように、病気の魚がその空気に浸りに来たのかと想像されるほどであった。この港では漁業も少しは行われていたが、夜間にぶらぶら歩き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]って海の方を眺めることが盛んに行われた★。殊に、潮《しお》がさして来て満潮に近い時に、それが行われるのであった。何一つ商売もしていない小商人が、時々、不可思議千万にも大財産をつくることがあった。そして、この附近の者が誰一人も点灯夫に我慢がならないことは不思議なくらいだった。
 日が昃《かげ》って午後になり、折々はフランスの海岸が見えるくらいに澄みわたっていた空気が、再び霧と水蒸気とを含んで来るにつれて、ロリー氏の思いもまた曇って来たようであった。日が暮れて、彼が朝食を待っていた時のようにして夕食を待ちながら、食堂の炉火の前に腰掛けていた時には、彼の心は、赤く燃えている石炭の中をせっせと掘って掘って掘っているのであった。
 夕食後の上等なクラレット★の一罎は、赤い石炭の中を掘る人に、ともすれば仕事を抛擲させがちであるからということの他《ほか》には、何の害もしないものである。ロリー氏は永い間安閑としていたが、そのうちに、中年を過ぎた血色のいい紳士が一罎を傾け尽した場合にいつも見られるようなこの上もなく満足だという様子で、自分の葡萄酒の最後の杯を注《つ》いだ時に、がらがらという車輪の音が狭い街路をこちらの方へとやって来て、旅館の構内へごろごろと入って来た。
 彼は杯に口をつけずにそれを下に置いた。「|お嬢さん《マムゼール》だな!」と彼は言った。
 数分たつと給仕人《ウェーター》が入って来て、マネット嬢がロンドンからお著きになって、テルソン銀行からお出でになった紳士にお目にかかれるなら仕合せですと言っていらっしゃいます、と知らせた。
「そんなに早く?」
 マネット嬢は途中で食事をおとりなったので、今はちっともほしくはないそうで、もしテルソン銀行の紳士の思召しと御都合さえよろしければ、すぐにお目にかかりたいと非常にお望みです、とのこと。
 そのテルソン銀行の紳士は、そのためには、ただ、無神経な捨鉢らしい風に杯の酒をぐうっと飲み乾《ほ》し、例の風変りな小さい亜麻色の仮髪《かつら》を耳のところでしっかりと抑えつけて、給仕人《ウェーター》の後についてマネット嬢の部屋へと行きさえすればよいのであった。そこは大きな暗い室で、黒い馬毛織を葬式にふさわしいような陰気なのに飾りつけ、どっしたりした黒ずんだ卓子《テーブル》を幾つも置いてあった。これらの卓子《テーブル》は油を塗ってぴかぴかと拭き込んであるので、室の中央にある卓子《テーブル》に立ててある二本の高い蝋燭は、どの板にもぼんやりと映っていた。あたかもその蝋燭が黒いマホガニーの深い墓穴の中に埋められていて、そこから掘り出されるまではその蝋燭からはこれというほどの光は期待することが出来ないかのようだった。
 そこの薄暗さでは見透すのが困難であったので、ロリー氏は、だいぶん擦り切れているトルコ絨毯の上を気をつけて歩きながら、マネット嬢は一時どこか隣の室あたりにいるのだろうと想像したが、やがて、例の二本の高い蝋燭の傍を通り過ぎてしまうと、彼には、その蝋燭と煖炉との間にある卓子《テーブル》の傍に、乗馬用外套を著て、まだ麦藁の旅行帽をリボンのところで手に持ったままの、十七より上にはなっていない一人のうら若い婦人が、自分を迎えて立っているのを認めた。彼の眼が、小柄で華奢な美しい姿や、豊かな金髪や、尋ねるような眼付をして彼自身の眼とぴたりと会った一双の碧い眼や、眉を上げたり顰《ひそ》めたりして、当惑の表情とも、不審の表情とも、恐怖の表情とも、それとも単に怜悧な熱心な注意の表情ともつかぬ、しかしその四つの表情を皆含んでいる一種の表情をする奇妙な能力(いかにも若々しくて滑《なめら》かな額《ひたい》であることを心に留めてのことであるが)を持つ額などに止《とど》まった時――彼の眼がそれらのものに止まった時に、突然、ある面影がまざまざと彼の前に浮んだ。それは、霰が烈しく吹きつけて波が高いある寒い日、この同じイギリス海峡を渡る時に彼自身が腕に抱いていた一人の幼児の面影であった。その面影は、彼女の背後にある気味の悪い大姿見鏡の面《おもて》に横から吹きかけた息《いき》なぞのように、消え去ってしまい、その大姿見鏡の縁には、幾人かは首が欠けているし、一人残らず手か足が不具だという、病院患者の行列のような、黒奴《くろんぼ》のキューピッドたちが、死海の果物★を盛った黒い籠を、黒い女性の神々に捧げていたが、――それから彼はマネット嬢に対して彼の正式のお辞儀をした。
「どうぞお掛け遊ばせ。」ごくはっきりした気持のよい若々しい声で。その口調《アクセント》には少し外国|訛《なま》りがあったが、それは全くほんの少しである★。
「わたしはあなたのお手に接吻いたします、お嬢さん。」とロリー氏は、もう一度彼の正式のお辞儀をしながら、昔の作法に従ってこう言い、それから著席した。
「あたくし昨日《きのう》銀行からお手紙を頂きましたのでございますが、それには、何か新しい知らせが――いいえ、発見されましたことが――」
「その言葉は別に重要ではありません、お嬢さん。そのどちらのお言葉でも結構ですよ。」
「――あたくしの一度も逢ったことのない――ずっと以前に亡《な》くなりました父のわずかな財産のことにつきまして、何かわかりましたことがありますそうで――」
 ロリー氏は椅子に掛けたまま身を動かして、例の黒奴《くろんぼ》のキューピッドたちの病院患者行列の方へ心配そうな眼をちらりと向けた。あたかも彼等が[#「彼等が」に傍点]そ
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