なかったであろうが。ただ一つの外部からの原因、それは彼のあの永年の間の永引いた苦しみに話が触れることであったが、それはいつでも――さっきの公判の時のように――彼の魂の奥底からそういう状態を喚び起すのであった。が、一方、その状態はまたその性質上ひとりでに起って、彼の上に暗雲を曳いて来ることもあった。それは、彼の身の上をよく知らない人々にとっては、まるで、三百マイルも離れたところにある本物のバスティーユ★が夏の太陽を受けて彼の上に投げかける影を見たかのように、不可解なことだった。
彼の心からこの陰鬱な物思いを払い除ける魅力を持っているのは彼の娘だけであった。彼女は、彼をその災難の彼方《かなた》の過去と、その災難の此方《こなた》の現在とに結びつける黄金《こがね》の糸であった。そして彼女の声音《こわね》、彼女の顔の明るさ、彼女の手の接触は、ほとんどいつでも、彼には強い有益な効力を持っていた。絶対にいつでも、という訳ではない。彼女にも自分の力の及ばなかった場合もあるのを思い起すことが出来たからである。が、そういう場合はわずかでちょっとしたものであったので、彼女はそんなことはもうすんでしまったものと信じていたのであった。
ダーネー氏は熱情と感謝とをこめて彼女の手に接吻し、それからストライヴァー氏の方へ振り向いて、彼に厚く礼を言った。ストライヴァー氏は、三十を少し越しただけだが、実際よりは二十歳も老《ふ》けて見える、太った、大声の、赭ら顔の、ざっくばらんな男で、敏感《デリカシー》などというひけめは一切持ち合せていなかった。人中《ひとなか》へも会話へも他人を肩で押し分けて(精神的にも肉体的にも)割込んでゆく押の強いたちであった。それは、彼が実生活でも他人を肩で押し分けて出世してゆくことを十分証拠立てているのだった。
彼はまだ仮髪《かつら》と弁護士服とを著けていた。そして、人のいいロリー氏をその一団からすっかり押し出してしまうまでに、自分のさっきの弁護依頼人に向って肩肱を張って、言った。「わたしは君を立派に救い出してあげたんで嬉しいですよ、ダーネー君。あれはどうも不埓な告発でした。実に不埓なものでした。だが、そのためにかえってうまくゆきそうだったんですな。」
「私は一生御恩に著《き》ます、――二つの意味で。」と彼のさっきの弁護依頼人が、相手の手を取りながら、言った。
「わたしは君のためにわたしの全力《ベスト》を尽したんです、ダーネー君。そしてわたしの全力《ベスト》は他《ほか》の人のに劣らんつもりですがね。」
「劣るどころかずっと優《まさ》っていますよ。」と明かに誰かが言わなければならないところだったので、ロリー氏がそれを言った。たぶん、少しの私心もなかったという訳ではなく、もう一度元のところへ割込もうという私心的な目的もあってのことらしかった。
「あなたはそうお考えですかね?」とストライヴァー氏は言った。「なるほど! あなたは一日中出席しておられたんだから、御存じのはずだ。それに、あなたは事務家ですからなあ。」
「ところでその事務家としまして、」とロリー氏が言った。彼は、その法律に精通した弁護士に先刻その一団から肩で押し出されたようにして、今度はその一団の中へ肩で押し戻されていたのである。――「その事務家としまして、私は|マネット先生《ドクター・マネット》にお願いいたしたいんですが、この会議をこれで打切りにして、私どもみんなを家《うち》へ帰らせていただきたいものですね。リューシーさんは工合がお悪いようですし、ダーネー君は恐しい目に遭われたのですし、私どもは疲れ切っておりますから。」
「御自分だけのことを話しなさい、ロリーさん。」とストライヴァーが言った。「わたしはまだしなけりゃならん夜の仕事があるんだ。御自分だけのことを話しなさい。」
「私は、自分のためと、」とロリー氏は答えた。「それからダーネー君に代って、申すのです。それからリューシーさんにも代って、それからまた――。リューシーさん、あなたは私が私どもみんなに代って話してもいいとお考えになりませんか?」彼はきっぱりと彼女にそう尋ねて、彼女の父親にちらりと目をやった。
彼の顔はダーネーをひどく詮索的な眼付で見つめていわば凍ったようになっていた。そのじっと見入った眼付はだんだんと深まって、嫌悪と疑惑との蹙《しか》め顔となり、恐怖の色をさえ交《まじ》えた。そういう奇妙な表情を浮べたまま彼の思いは彼からふらふらと脱け出ていたのだ★。
「お父さま。」とリューシーは、自分の手をそっと彼の手に載せながら、言った。
彼は幻影をゆっくりと払い除けて、彼女の方へ振り向いた。
「あたしたちはお家《うち》へ帰りましょうか、お父さま?」
長い息をつきながら、彼は答えた。「うむ。」
放免された囚人の友人たち★は、彼がその晩釈放されることはあるまいと考えて、――そう考えたのは彼自身が発頭人なのであったが、――もう散り散りになってしまっていた。廊下の灯火はほとんど全部消され、鉄の門はぎいっと軋り音を立てて鎖されかけ、その気味の悪い場所は、明日の朝、絞首台や、架刑台や、笞刑柱や、烙鉄《やきがね》などの興味が再び見物人を集めるまでは、人気《ひとけ》がなくなってしまった。リューシー・マネットは、父親とダーネー氏との間に挟まれて歩きながら、戸外へ出た。一台の貸馬車が呼び止められて、父と娘とはそれに乗って去って行った。
ストライヴァー氏は廊下で皆と別れて、肩で風を切って衣裳室へと引返して行ってしまっていた。その一団に加わりもせず、また彼等の中の誰とも一語を交《かわ》しもせずに、壁の蔭の一番暗いところに凭れかかっていたもう一人の人間は、黙々として皆の後からぶらぶらと出て行って、馬車が馳せ去るまで見送っていた。彼はそれからロリー氏とダーネー氏とが鋪道に立っているところまで歩いて行った。
「やあ、ロリーさん! 事務家ももう今じゃあダーネー君と口が利けるようになったという訳ですかな?」
誰一人としてこの日の弁論におけるカートン氏の役割について少しでも感謝の意を表した者はなかった。誰一人としてそれを知りもしなかった。彼は法服を脱いでいたが、そのために別段風采がよくなっているという訳でもなかった。
「事務家の心が善良な直情と事務上の体面との二つに分れる場合に、その人がどんなつらい思いをするものかということが君にわかれば、君も面白がるんだろうがね、ダーネー君。」
ロリー氏は顔を赧くして、むきになって言った。「あなたはさっきもそのことを仰しゃいましたね。会社などへ勤めているわれわれ事務家は、自分が自分の思い通りにならんのですよ。われわれは自分自身のことよりももっと会社のことを考えなくちゃあならんのです。」
「わかってますとも[#「とも」に傍点]、わかってますとも[#「とも」に傍点]。」とカートン氏は無頓著に答えた。「そう怒っちゃいけませんよ、ロリーさん。あなたが人に劣らない善い人だってことは、僕は少しも疑いませんよ。いや、人より以上に、と言ってもいいでしょう。」
「それにですな、実際、」とロリー氏は、相手の言うことにも構わずに、言い続けた。「わたしにはあなたがそういう事柄にどういう関係がおありになるのか全くのところわからんのです。わたしはあなたよりはよっぽど年長者だから、それに免じて言わしてもらえるならですな、そういうことがあなたの関する事務だとはわたしには全くわからんのです。」
「事務ですって! とんでもない、僕には[#「僕には」に傍点]事務なんてものはありゃしませんよ。」とカートン氏が言った。
「事務がないとはお気の毒なことですな。」
「僕もそう思います。」
「もしおありでしたら、」とロリー氏は言い続けた。「たぶんあなただってそれに身をお入れになるでしょうがね。」
「いやいや、どういたしまして! ――身を入れるものですか。」とカートン氏が言った。
「えっ、何ですって!」と、彼の冷淡さにすっかりかんかんになって、ロリー氏は叫んだ。「事務は非常に結構なものですし、また非常に尊敬すべきものです。それでですな、事務上から拘束を受けて黙っていたり差控えていたりしなければならないとしても、ダーネー君のような寛大な青年紳士は、その辺の事情を大目に見られることなどはちゃんと心得ておられるのです。ダーネー君、おやすみなさい。御機嫌よう! あなたが今日《きょう》命拾いをされたのはこれから順調な幸福な生涯を送られるためであるようにと思いますよ。――おうい、轎《かご》★だ!」
その弁護士にと同様にたぶん自分自身にも少し腹を立てて、ロリー氏はせかせかと轎に乗って、テルソン銀行へと担がれて行った。ポルト葡萄酒★の匂いをぷんぷんさせて、全くの素面《しらふ》とは見えないカートン氏は、この時笑い声を立てて、ダーネーの方へ振り向いた。――
「君と僕とが落合うとはこれあ不思議な※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り合せだ。自分にそっくりの人間とここで二人だけでこの鋪石《しきいし》の上に立っているなんて、君にとっても不思議な晩に違いないだろう?」
「私にはまだ、」とチャールズ・ダーネーが答えた。「この世へ戻ったような気が十分しないのです。」
「そいつあ不思議じゃあないよ。何しろ君があの世の方へだいぶ遠くまで行きかけたのはついさっきのことだからな。君は気が遠くなっているようなのに口を利いているね。」
「私は確かに[#「確かに」に傍点]気が遠くなりそうな気がして来ました。」
「それなら一体どうして君は食事をしないんだ? 僕は、あの馬鹿野郎どもが君をどちらの世界に置いたものか――この世か、それともどこか別の世か――と頭をひねっている間に、食事をしたのさ。うまい食事をさせてくれる一番近くの飲食店へ案内しようか。」
腕と腕とを組み合せながら、彼は相手の男をひっぱって、ラッドゲート・ヒル★を下ってフリート街に出て、それから、廊道を上って一軒の飲食店へ入った。そこで二人は小さな一室に案内され、チャールズ・ダーネーは上等のあっさりした食事と上等の葡萄酒とでまもなく力を恢復していた。その間カートンは同じ卓子《テーブル》に向って彼と向い合せに腰掛けていて、前に自分の別なポルト葡萄酒の罎を置き、例の半ば横柄な態度をすっかり現していた。
「君はもうこの世の人間に戻ったような気がするかね、ダーネー君?」
「私はまだ時間と場所については恐しく混乱していますが、それくらいの気がするほどには気分がよくなりました。」
「それはさぞかし御満足だろうね!」
彼は苦《にが》々しげにそう言って、また自分の杯に一杯に注《つ》いだ。それは大きな杯であった。
「ところが僕はだ、僕の何よりの願いは、自分がこの世のものだということを忘れたいということなんだ。この世は僕にとっては――こんな酒を除けばだね――何のいいところもないし、また、僕もこの世にとってはそうなんだ。だから、その点では僕たちは大して似ちゃあいないんだな。いや、そればかりか、僕たちはどの点でも大して似ていないような気がして来たよ、君と僕とはね。」
昼間《ひるま》の感情の激動で頭が乱れてもいたし、粗野な振舞のこの生写《いきうつ》しの人間と一緒にそこにいるのが夢のように思れもするので、チャールズ・ダーネーはどう答えていいかまごついた。で、とうとう、何も答えなかった。
「さあ、もう君の食事もすんだのだから、」とカートンはやがて言った。「なぜ君は健康を祝さないのさ、ダーネー君? なぜ君は乾杯をしないんだい?」
「何の祝杯を? 何の乾杯を?」
「なあに、そいつあ君の口先まで出ているさ。そうあるべきだよ、そうに違いないよ。そうだということは僕は誓ってもいいぜ。」
「では、|マネット嬢《ミス・マネット》に!」
「では、|マネット嬢《ミス・マネット》に!」
その乾杯をしている間相手の顔をまともに眺めていたカートンは、自分の杯を肩越しに壁に投げつけた。杯は粉微塵に砕けた。それから、彼は呼鈴《ベル》を鳴らして、別のを持って来いと言いつけ
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