「北塔百五番。」
吐息《といき》とも呻《め》き声ともつかぬものうい音《ね》をほっと洩らすと共に、彼はまた身を屈めて仕事をし出したが、やがて沈黙はまた破られた。
「あなたは本職の靴造りではないのでしょうね?」と、彼をじっと見つめながら、ロリー氏が言った。
この質問をドファルジュに転嫁したがっているかのように、彼のやつれた眼はドファルジュの方に向いた。が、その方面からは何の助けも来なかったので、その眼は床《ゆか》を捜してから質問者に戻った。
「わたしが本職の靴造りではないだろうって? はい、わたしは本職の靴造りではありませんでした。わたしは――わたしはここへ来てから覚えたのです。独りで覚えたのです。わたしはお許しを願って――」
彼はそう言いかけたまま何分間もぼんやりした。その間中、あの両手の規則的な代る代るの動作を繰返していた。彼の眼は、とうとう、そこからさまよい出た元の顔へゆっくりと戻った。その顔に止ると、彼ははっとして、眠っていた人がつい今目が覚めて、前夜の話題をまた話し出すような工合に、再び言い始めた。
「わたしはお許しを願って独りで覚えたいと思いましたが、ずいぶん永い間かかってやっとのことでそのお許しを得ました。その時からずっと靴を造っております。」
彼が取り上げられている靴を受け取ろうとして手を差し出した時に、ロリー氏はなおも彼の顔をじっと覗き込みながら言った。――
「ムシュー・マネット、あなたは私のことをちっとも覚えていらっしゃいませんか?」
靴は床《ゆか》にばたりと落ち、彼はその質問者をじいっと眺めながら腰掛けていた。
「ムシュー・マネット、」――ロリー氏は自分の片手をドファルジュの腕にかけて、――「あなたはこの人のことをちっとも覚えていらっしゃいませんか? この人をよく御覧なさい。私をよく御覧なさい。あなたのお心の中には、昔の銀行員や、昔の仕事や、昔の召使や、昔のことが少しも浮んで参りませんか、ムシュー・マネット?」
その永年の間の囚人がロリー氏とドファルジュとを代る代るじいっと見つめながら腰掛けているうちに、額《ひたい》の真中の、永い間掻き消されていた、活動的な鋭い知能の徴《しるし》が、彼にかぶさっていた黒い霧を押し分けてだんだんと現れて来た。と、その徴は再び霧に覆われ、次第に微かになり、とうとう消え去ってしまった。が、それは確かにそこに現れたのであった。そして、その表情は、壁に沿うて彼の姿の見られるところまでそうっと歩いて来て、今はそこに彼を見つめながら立っている令嬢の、美しい若い顔にも寸分の違いなくそっくりに現れたので、――その彼女は、最初は、たとい彼を近づけず彼の姿を見まいとするためではないにしても、恐怖を交《まじ》えた憐憫の情から両手をただ挙げていただけであったのに、今は、亡霊のような彼の顔を自分の暖かな若い胸に休ませて、それを愛撫して生命と希望とに引戻してあげたいという熱望で震わせながら、その手を彼の方に差し伸べていたのであるが、――その表情は彼女の美しい若い顔にも寸分の違いなく(もっともその性質はいっそう強かったが)そっくりに現れたので、移り動く光のようにそれが彼から彼女に移ったのかと思われるくらいであった。
暗黒がその表情に代って彼に覆いかぶさっていた。彼が二人を見つめる注意が次第次第に弱くなり、その眼は陰鬱な放心状態で前のようにして床《ゆか》を捜し自分の周りを見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した。遂に、深い長い吐息を一つつくと、彼は靴を取り上げて、また仕事にかかった。
「あの方《かた》だという見分けがおつきになりましたか、旦那《ムシュー》?」とドファルジュが囁き声で尋ねた。
「つきました。一瞬間ですがね。最初はわたしはそれを全く望みがないと思いましたが、ほんの一瞬間、わたしが以前よっく知っていた顔を確かに見ました。しいっ! わたしたちはもっと後へさがりましょう。しいっ!」
彼女は屋根裏部屋の壁のところから離れて、彼の腰掛けている腰掛台《ベンチ》のごく近くまで行っていた。手を差し出せば身を屈めて仕事をしている自分に触れるところにいる人の姿をも意識しない彼の様子には、何となくぞっとするようなところがあった。
一語も話されなかったし、何の音も立てられなかった。彼女は彼の傍に精霊のように立っていたし、彼は仕事をしながら屈んでいた。
そのうちに、彼は手に持っている道具を靴造り用の小刀《ナイフ》に持ち替える必要が出来た。その小刀《ナイフ》は彼女の立っている側と反対の側にあった。それを取り上げて、再び仕事にかかろうと屈んだ時に、ふと彼女の衣服の裾《スカート》が目についた。彼は眼を上げて、彼女の顔を見た。傍に見ていた二人の者ははっとして前へ出た。が、彼女は片手を動して彼等を制止した。彼がその小刀《ナイフ》で彼女を突き刺しはしまいかと、彼等は懸念したにしても、彼女は少しもしなかった。
彼は恐しい眼付で彼女を見つめた。そして、しばらくしてから、彼の脣は、まだ少しの声もそこから出て来はしなかったけれども、何かの言葉を言う形をし出した。漸次に、速い苦しげな息遣いの合間合間に、こう言うのが聞えて来た。――
「これはどうしたことだろう?」
涙を顔にぽろぽろ流しながら、彼女は自分の両の手を脣にあて、それに接吻して彼に送った。それから、その手をちょうど彼の破滅させられた頭をそこに休ませるかのように、自分の胸の上に組み合せた。
「あなたは牢番さんの娘さんではありませんね?」
彼女は溜息をつくように言った。「ええ。」
「あなたは誰ですか?」
彼女は、まだ自分の声の調子が当《あて》に出来なかったので、彼と並んでその腰掛台《ベンチ》に腰を掛けた。彼は尻込みした。が彼女は自分の片手を彼の腕にかけた。彼女がそうした時に奇妙な戦慄が彼を襲い、それが目に見えて彼の体中に伝わった。彼は彼女を見つめながら、小刀《ナイフ》をそっと下に置いた。
長い捲毛にしている彼女の金髪は、ぞんざいに掻き分けてあって、彼女の頸のところまで垂れていた。彼は手を少しずつ伸ばし、その髪を手に取り上げてじっと見入った。そうしている最中に彼は気がふらふらとして、もう一度深い吐息をつくと、靴を造る仕事を始めた。
しかし永い間ではなかった。彼女は彼の腕を放して、彼の肩に手をかけた。すると彼は、あたかもその手がほんとうにそこにあるのかということを確めようとするかのように、二度か三度それを疑わしげに眺めてから、仕事を下に置き、自分の頸のところへ手をやって、黒くなった一筋の紐を取り出した。その紐には摺《たた》んである襤褸の小片が結びつけてあった。彼はそれを膝の上で気をつけて開《あ》けた。中にはほんの少しの髪の毛が入っていた。彼がいつか以前に自分の指に巻きつけて取ったらしい一筋か二筋の長い金髪だった。
彼は彼女の髪の毛を再び手に取って、それをつくづくと眺めた。「同じものだ。どうしてそんなことがあるはずがあろう! あれはいつのことだったろう! どうしてだったかな!」
例の思いを凝すような表情が彼の額に戻って来た時、彼はその表情が彼女の額にもあるのに気がついたようであった。彼は彼女を光の方へまともに向けて、彼女を眺めた。
「わしが呼び出されたあの晩、彼女《あれ》はわしの肩に頭をあてていた。――彼女《あれ》はわしの出かけるのを心配していた。わしの方は少しも心配などしなかったのに。――それからわしが北塔へ連れて来られた時に、これがわしの袖についているのをあの人たちが見つけたのだ。『あなた方もこれはわたしに残しておいて下さるでしょうな? これはわたしの魂の脱獄には助けになるかもしれんが、体の脱獄には決して助けになることは出来んものだから。』わしはそう言ったものだった。わしはそれをよく覚えている。」
彼はこれだけの文句を口に出せるまでには、何度も何度も脣でその文句の形をしてみたのであった。しかし、話そうとする言葉が出て来始めると、ゆっくりではあったけれども、次々に続いて出て来た。
「これはどうしてだったろうな? ――あれはあなただったのか[#「あれはあなただったのか」に傍点]?」
彼が恐しく不意に彼女の方に振り向いたので、もう一度、二人の傍観者ははっとした。だが、彼女は彼の手に掴まえられたまま全くじっと腰掛けていて、ただ低い声でこう言った。「どうぞ、お願いでございますから、皆さま、あたくしたちの近くへお出で下さいますな、口をお利き下さいますな、お動き下さいますな!」
「おや!」と彼は叫んだ。「あれは誰の声だったかな?」
この叫び声を立てると彼は両手を彼女から離し、自分の白髪のところへ上げて、気違いのようにそれを掻きむしった。それも次第に止んでしまった。彼の靴造りの仕事以外のどんなことでも彼には次第に止んでゆくように。そして彼はあの小さな包みを再び摺み、それを胸のところへしまいこもうとした。が、やはり彼女を見ていて、陰気な顔をしながら頭を振った。
「いや、いや、いや。あなたは若過ぎる。若盛り過ぎる。そんなことはあるはずがない。この囚人がどんなになっているか見て御覧。この手は彼女《あれ》の知っていた頃の手ではない。この顔も彼女《あれ》の知っていた頃の顔ではない。この声も彼女《あれ》の聞いたことのある声ではない。いや、いや。彼女《あれ》も――またその頃のわしも――北塔で永い年月《としつき》がたたぬ前のことだ、――ずっとずっと昔のことだ。優しい天使さん、あなたの名前は何というのですか?」
彼の語調と挙動との和《やわら》いだのに喜んで応ずるように、彼の娘は彼の前に跪いて、訴えるように両手を彼の胸のところへ差し出した。
「おお、あなたさま、いつかまた別の時に、あたくしの名前や、あたくしのお父さまがどなたでしたか、お母さまがどなたでしたか、またそのお二人のつらいつらいお身の上をどうしてあたくしがちっとも知らずにいましたか、お話申し上げましょう。けれども、今は申し上げられません。ここでは申し上げられません。ここで今申し上げられますのは、どうかあたくしにお手をあててあたくしを祝福して下さいましとお願いすることだけでございますわ。あたくしに接吻して下さいまし、接吻して下さいまし! おお、お懐《なつか》しいお方、お懐しいお方さま!」
彼の冷い白い頭は彼女のつやつやした髪の毛と雑《まじ》り、その髪は彼を照す自由の光であるかのようにその頭を温め輝かせた。
「もしあなたがあたくしの声をお聞きになりまして、あたくしの声に――そうなのかどうかあたくしは存じません、そうであるようにと思っているのでございますが――あたくしの声に、以前あなたのお耳にとって美わしい音楽でありましたお声に幾らかでも似たところがございましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし! もしあなたがあたくしの髪にお触りになりまして、あなたがお若くて自由でいらした頃にあなたのお胸にもたれた最愛の方《かた》のお頭《つむり》を思い出させるものが何でもございましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし! もしあたくしがこれから御一緒に家庭をつくって、出来るだけ忠実に出来るだけ真心をこめてあなたにお仕えいたしましょうと申し上げます時に、あなたのお気の毒なお心が思い悩んでいらっしゃる間、永い間見棄てられていた家庭を思いお出しになりましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さいまし!」
彼女は彼の頸をいっそうしっかりと抱き締めて、彼を子供のように自分の胸のところで揺り動かした。
「もしあたくしが、お懐しいお懐しいお方、あなたのお苦しみはもうすみました、そのお苦しみからあなたをお救いするためにあたくしはここへ参りました、あたくしたちは平和に安穏に暮すためにイギリスへ行くのです、と申し上げます時に、あなたが、御自分の有益な御生涯が無駄になりましたことや、あたくしたちの生れ故郷のフランスがあなたにたいそう意地わるであったことを思いお出しになりましたなら、どうかお泣き下さいまし、お泣き下さ
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