》を明るくするために、その滑車綱で人間をひっぱり上げようという考えを思い付く★時が、やがて来ることになっていたからである。しかし、その時はまだ来てはいなかった。そして、フランスを吹きわたるどの風も徒らにその案山子たちの襤褸をはたはたと振り動かすだけであった。なぜなら、鳴声も羽毛も美しい鳥ども★は一向に自らを戒めるところがなかったからである。
 さっきの酒店は角店《かどみせ》で、外見や格式が他の大抵の店よりも立派であった。その酒店の主人は、黄ろいチョッキに緑色のズボンを著けて、店の外に立って、こぼれた葡萄酒を飲もうと争っている有様を傍観していた。「こいつあおれの知ったことじゃねえや。」と彼は、最後に肩を一つ竦《すく》め★ながら、言った。「市場《いちば》から来た連中がしでかしたんだからな。奴らにもう一つ持って来させりゃいい。」
 その時、ふと彼の眼が例の脊の高い剽軽者があの駄洒落《だじゃれ》を書き立てているに止ったので、彼は路の向側のその男に声をかけた。――
「おいおい、ガスパール、お前そこで何してるんだい?」
 その男は、そういう手合のよくやるように、さも意味ありげに自分の駄洒落《だじゃれ》を指し示した。ところが、それが的《まと》が外《はず》れて、すっかり失敗した。これもそういう手合にはよくあることである。
「どうしたんだ? お前は気違い病院行きの代物か?」と酒店の主人は、道路を横切って行って、一掴みの泥をすくい上げ、それを例の洒落《しゃれ》の落書の上になすりつけて消しながら、言った。「どうしてお前は大道なんかで書くんだ? こんな文句を――さあ、おれに言ってみろ――こんな文句を書き込む場所が他《ほか》にないのか?」
 こう言い聞かせながら、彼は汚れていない方の手を(偶然にかもしれぬし、そうではないかもしれぬが)その剽軽者の胸のところに落した。剽軽者はその手を自分の手でぽんと敲いて、ぴょいと身軽く跳び上り、珍妙な踊っているような恰好で下りて来ながら、酒で染った自分の靴の片方を、足からひょいと振り脱いで手に受け止め、それを差し出して見せた。そういう次第で、その男は、飽くことのない悪戯《いたずら》好きであることは言うまでもないが、極端な悪戯《いたずら》好きの剽軽者らしく見えた。
「靴を穿きな、靴を穿きな。」ともう一人の方《ほう》が言った。「酒は酒と言って、それで止《や》めとくんだぞ。」そう忠告しながら、彼は自分の汚れた方の片手をその剽軽者の衣服で拭いた。――その男のせいでその手を汚したのだというので、全くわざとやったのだ。それから、道路を再び横切って、酒店へ入った。
 この酒店の主人というのは、猪頸《いくび》の、勇敢そうな、三十歳くらいの男であった。そして熱しやすい気性の人間に違いなかった。というのは、身を斬るような寒い日だったのに、彼は上衣を著ないで、それを肩へ投げかけていたからである。シャツの袖もまくし上げてあって、日に焦《や》けた腕は肱のところまでむき出しになっていた。それから、頭にも、自分自身のくるくると縮れている短い黒っぽい髪の毛より他《ほか》には、何もかぶっていなかった。彼は総体に浅黒い男で、感じのいい眼をしており、その眼と眼との間にはかなり大胆な豪放さがあった。概して愛嬌のよさそうな男であるが、執念深そうでもある。明かに強い決意と頑固な意思とを持った男だ。右側にも左側にも深淵のある隘路を駈け降りて来る時には出くわしたくない男である。というのは、どんなことがあってもこの男を後戻りさせることは出来ないだろうから。
 彼の妻のマダーム・ドファルジュは、彼が店に入って来た時には、店の中の勘定台の後に腰掛けていた。マダーム・ドファルジュは彼とほぼ同年輩のがっしりした婦人で、滅多に何でも見ないように思われる油断のない眼と、たくさん指環を嵌めた大きな手と、きりっとした顔と、きつい目鼻立ちと、非常に落著き払った態度とをしていた。マダーム・ドファルジュには、彼女なら自分の管理しているどの勘定ででも自分の気のつかない間違いを滅多にやることはあるまいと誰でもが予言出来そうな、一種の特性があった。マダーム・ドファルジュは寒がりだったので、毛皮にくるまって、その上、首の周りには派手な肩掛《ショール》をぐるぐる巻きつけていた。もっとも、それも大きな耳環が隠れてしまうほどにはしていなかったが。彼女の編物がその前にあったが、彼女はそれを下に置いて爪《つま》楊枝で歯をほじくっていた。左の手で右の肱を支えながら、そうして歯をほじくっていて、マダーム・ドファルジュは、自分の御亭主が入って来た時には何も言わずに、ただ一度だけちょっと咳払いをした。この咳払いは、彼女が爪楊枝を使いながら黒くくっきりとした眉毛をわずかばかり揚げることと共に、彼女の夫に、彼が路の向側
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