こういうすべての事柄や、これに類した数多《あまた》の事柄が、その親愛なる一千七百七十五年とそのすぐ前後に起っていたのであった。例の樵夫《きこり》と農夫とが誰にも気づかれずに働いていた間、そういう事柄に取巻かれながら、大きな顎をしたあの二人と、不器量な顔と美しい顔をしたあのもう二人とは、すこぶる堂々と歩み、彼等の神授の王権を傲然と携えて行った。こういう風にして、一千七百七十五年は、その王者たちや、無数の微賤な人々――この物語に出て来る人々をもその中に含めて――を導いて、彼等の前に横わる道を進ませたのである。
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第二章 駅逓馬車
十一月も晩《おそ》くのある金曜日の夜、この物語と交渉のある人物の中の最初の人の前に横わっていたのは、ドーヴァー街道であった。そのドーヴァー街道は、その人の前にと同じく、シューターズ丘《ヒル》★をがたがたと登ってゆくドーヴァー通いの駅逓馬車の先に横わっているのであった。その人は駅逓馬車の脇に沿うて泥濘の中を阪路を歩いて登っていたのであるが、他の乗客たちもやはりそうしていた。それは、何も彼等がこういう場合に少しでも歩行運動に趣味を持っていたからではなく、その丘も、馬具も、泥濘《ぬかるみ》も、馬車も、みんなひどく厄介なものだったので、馬どもはそれまでにもう三度も立ち停ったし、おまけに一度などは、ブラックヒース★へ馬車を曳き戻そうという反抗的な意思をもって、街道を横切って馬車を牽き曲げたからなのである。しかし、手綱と鞭と馭者と車掌とが、一緒になって、放置しておけば、動物の中には理性を賦与されているものもいるという議論に非常に都合のよくなる目論《もくろみ》を、禁止するところのあの軍律を、読み聞かせた★のだ。それで、馬どもも降参して、彼等の任務をまたやり出したのだった。
彼等は、頭をうなだれ尾を震わせながら、折々は、四肢の附根《つけね》のところで潰れはしないかと思われるくらいに、足掻《あが》いたり躓《つまず》いたりして、どろどろの泥の中を進んで行った。馭者が、油断なく「どうどう! はい、どうどう!」と言いながら、彼等を立ち止らせて休ませるたびに、左側の先導馬は、いかにも並外れて勢のある馬らしく――頭や頭に附いているすべてのものを激しく振り動かし、こんな丘へこんな馬車を曳き上げるなんてことが出来るものかと言っているようだった。その馬がそういう音を立てるたびごとに、例の旅客は、神経質な旅客ならするように、びくっとして、心がどきどきするのであった。
谷間という谷間には濛々《もうもう》たる霧がたちこめていた。そして、悪霊のように、安息を求めて得られずに、寄るべなく丘の上へさまよい上っていた。じっとりした、ひどく冷い霧、それが、荒れた海の波のように、目に見えて一つ一つと続いて拡がっている漣《さざなみ》をなして、空中をのろのろと進んで来る。馬車ランプの燃えているのと、その附近の道路の数ヤードとを除いては、何もかもランプの光から遮っているくらいに、濃い霧だった。そして、喘ぎながら曳っぱっている馬の立てる湯気がそれと雑《まじ》り、その霧がみんな馬の吐き出したものかと思われるほどであった。
例の旅客の他《ほか》に、もう二人の旅客が、その駅逓馬車の脇に沿うて丘をのそりのそりと登っていた。三人とも、耳の上も頬骨のところまでも身をくるんでいて、膝の上までの大長靴を穿いていた。この三人の中の誰一人も、自分の見たことからは、他の二人のどちらかがどういう類《たぐい》の人物であるか言えなかったろう。また、銘々は、自分の二人の道連《みちづれ》の肉眼に対してと同様に、彼等の心眼に対しても、ほとんど同じくらいたくさんのものを纒って自分を隠していた。その頃の旅人は、ちょっと知り合っただけで打解けることをひどく嫌っていたのである。というのは、道中で逢う人間は誰であろうと、それが追剥か、追剥とぐるになっている者であるかもしれなかったからである。その追剥とぐるになっているということなら、何しろ、宿駅★という宿駅、居酒屋という居酒屋には、亭主から一番下っぱの怪しげな厩舎係までにわたって、「首領《キャプテン》」の手当を貰っている者が誰かしらいるという時代では、それはいかにもありそうなことなのだ。そんなことをドーヴァー通いの駅逓馬車の車掌が腹の中で思ったのは、一千七百七十五年の十一月のその金曜日の夜、シューターズ丘《ヒル》をがたがた登りながらのことで、その時、彼は馬車の後部にある自分だけの特別の台に立って、足をどんどんと踏み、自分の前にある武器箱に目と片手とを離さずにいた。その武器箱の中には、彎刀《わんとう》を一番下にして、その上に七八挺の装薬した馬上拳銃が置いてあり、それの上に一挺の装薬した喇叭銃が載せてあったのだ。
このドーヴァ
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