ト》、それはいかにも[#「いかにも」に傍点]わたしでした。ところが、それ以来わたしがあなたに一度もお目にかからなかったことをお考え下されば、わたしがつい今、自分のことを、わたしには感情というものがないとか、わたしと他の人たちとの関係はみんなただの事務上の関係だとか申しましたことが、ほんとうであることがおわかりになりますでしょう。そうです、一度もお目にかかりませんでした。あなたはそれ以来ずっとテルソン商社の被後見人ですのに、わたしはそれ以来ずっとテルソン商社の他《ほか》の事務にばかり齷齪《あくせく》していたのです。感情なんて! わたしにはそんなものを持つ時まもなく、機会もありません。わたしは一生、お嬢さん、大きなお札《さつ》の皺伸機《しわのし》を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]して過すのですよ。」
自分の毎日の仕事をこういう奇妙なのに説明してから、ロリー氏は亜麻色の仮髪《かつら》を両手で頭の上から平らに抑えつけ(これは全く余計なことで、そのぴかぴかした表面は前から何も及ばないくらいに平らになっているのである)、それから元の姿勢に返った。
「ここまでは、お嬢さん、(あなたの仰しゃいました通り)あなたのお気の毒なお父さまの身の上話なのです。ところが、これからは違うのですよ。もしも、あなたのお父さまが、お亡くなりになったという時に、亡くなられたのではない、としますと――。驚かないで下さい! そんなにびっくりなすっては!」
彼女は、実際、跳び立つほどびっくりしたのだった。そして両手で彼の手頸を掴んだ。
「どうぞ、」とロリー氏は、左の手を椅子の背から離して、それを烈しくぶるぶる震えながら彼の手を握っている懇願するような指の上に重ねながら、宥《なだ》めるような調子で言った。――「どうぞお気を鎮めて下さい、――これは事務なんですから。今申しましたように――」
彼女の様子がひどく彼を不安にさせたので、彼は言葉を切り、どうしようかと迷ったが、また話し出した。――
「今申しましたように、ですね。もしもムシュー・マネットが亡くなられたのではないとしますと、ですよ。もしもあなたのお父さまが突然に人にも言わずに姿を消されたのだとしますと、です。もしも神隠しか何かのようにされたのだとしますと、です。どんなに恐しい処へ行かれたか推測するのはむずかしくはないが、どんなことをしてもお父
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