―最初は口の中で、次には声を立てて。「『ドーヴァーにて|お嬢さん《マムゼール》を待て。』と。長くはないだろう、ねえ、車掌。ジェリー、こう言ってくれ。わたしの返事は、甦る[#「甦る」に丸傍点]、というのだった、とね。」
ジェリーは鞍の上でぎょっとした。「そいつあまたとてつもなく奇妙な御返事ですねえ。」と彼は精一杯の嗄《しゃが》れ声で言った。
「その伝言《ことづて》を持って帰りなさい。そうすれば、わたしがこれを受け取ったことが、手紙を書いたと同じくらいに、先方にわかるだろうからね。出来るだけ道を急いで行きなさい。じゃ、さようなら。」
そう言いながら、旅客は馬車の扉《ドア》を開《あ》けて入った。が、今度は相客たちは少しも彼の手助けをしなかった。彼等は自分の懐中時計や財布を長靴の中へ手速く隠し込んでしまって、その時はすっかり眠っている風をしていたのだ。それは、特にはっきりした目的があってのことではなく、ただ、何等かの他の種類の行動の原因を作るような危険を避けるためなのであった。
馬車は再びがらがらと動き出し、下り坂へ来かかると、前よりももっと濃い環を巻いた霧が周りに迫って来た。車掌はまもなく喇叭銃を武器箱の中へ戻し、それから、その中にある他の武器を検《しら》べ、自分の帯革につけている補充用の拳銃《ピストル》を検べると、自分の座席の下にある小さな箱を検べてみた。その中には二三の鍛冶道具と、火把《たいまつ》が一対と、引火奴箱《ほくちばこ》が一つ入っていた。それだけすっかり備えておいたのは、折々起ったことであるが、馬車ランプが嵐に吹き消された時には、車内に入って閉《し》めきり、火打石と火打|鉄《がね》とで打ち出した火花を藁からほどよく離しておけば、かなり安全にかつ容易に(うまくゆけば)五分間で明りをつけることが出来たからである。
「トム!」と馬車の屋根越しに低い声で。
「おうい、ジョー。」
「あの伝言《ことづて》を聞いたかい?」
「聞いたよ、ジョー。」
「お前《めえ》あれをどう思ったい、トム?」
「まるでわかんねえよ、ジョー。」
「じゃあ、そいつも同《おんな》じこったなあ。」と車掌は考え込むように言った。「おれだってまるっきりわかんねえんだからな。」
霧と闇との中にただ独り残されたジェリーは、その間に馬から下りて、疲れ果てた馬を楽にさせてやるばかりではなく、自分の顔にかか
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