いる例の旅客は、馬車の踏台に乗って、入りかけていた。他の二人の旅客は、彼のすぐ後にいて、続いて入ろうとしていた。彼は、半身を馬車の中に、半身を馬車の外にしたまま、踏台に立ち止った。他の二人は道路の彼の下に立ち止った。彼等三人は馭者から車掌へ、車掌から馭者へと眼をやり、そして耳をすました。馭者は振り返って見、車掌も振り返って見、例の勢のある馬でさえ、逆らいもせずに、耳を欹《そばた》て振り返って見た。
夜の静かな上に、馬車のがらがらごとごという音が止《や》んだための静けさが加わって、あたりは全くひっそりしてしまった。馬の喘ぐのが伝わって馬車がぶるぶる震動し、ちょうど馬車が胸騒ぎしてでもいるようだった。旅客たちの心臓はおそらく聞き取れそうなくらいに高く鼓動していたろう。とにかく、そのひっそりしている合間は、人々が息を殺し、固唾《かたず》を呑み、何事が起るかと思って動悸を速めている様子を、聞えるほどに表《あらわ》したのであった。
疾駈《はやがけ》で来る馬の蹄の音が猛烈に丘を上って来た。
「おうい!」と車掌は呶鳴れるだけの大きな声で呼びかけた。「こらあ! 止れ! 撃つぞ!」
馬の歩みはぴたりと止められた。そして、頻りに泥をはねかす音と足掻《あが》く音がすると共に、霧の中から一人の男の声が聞えて来た。「それあドーヴァー通いの馬車かい?」
「何だろうといらぬお世話だい!」と車掌が言い返した。「お前《めえ》こそ何者だ?」
「それあドーヴァー通いの馬車なの[#「なの」に傍点]かい?」
「どうしてそんなことを知りてえんだ?」
「もしそうなら、わっしはお客さんに用があるんだよ。」
「何というお客さんだい?」
「ジャーヴィス・ロリーさんだ。」
例の記載ずみの旅客はただちにそれが自分の名前であるということを告げ知らせた。車掌と、馭者と、他の二人の旅客とは、胡散《うさん》そうに彼をじろじろ見た。
「そこにじっとしていろよ。」と車掌が霧の中の声に呼びかけた。「もしおれが間違《まちげ》えをやらかすとなると、そいつあお前《めえ》の生涯中取返しがつかねえんだからな。ロリーって名前のお方、じかに返事してやって下せえ。」
「どうしたのだね?」と、その時、例の旅客は穏かに震えた口振りで尋ねた。「わたしに用があるというのは誰だね? ジェリーかい?」
(「あれがジェリーってえんなら、そのジェリーてえ奴の
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