馬車が待っているのを見ると、彼は娘の手を放して、また自分の頭を抱えた。
 入口のあたりには人だかりもなかった。たくさんの窓のどれにも人影は見えなかった。街路にも偶然に通りかかっている人さえ一人もいなかった。不自然なほどの沈黙と寂寞とがあたりを領していた。ただ一人の人間だけが見えた。それはマダーム・ドファルジュであった。――彼女は入口の側柱に凭れかかって編物をしていて、何も見ずにいた。
 かの囚人が馬車の中へ入ってしまい、彼の娘がその後に続いて入ってしまった時に、ロリー氏は、囚人が彼の靴を造る道具とあの仕上っていない靴とを哀れげに求める声を聞いて、踏台の上に足を止めた。マダーム・ドファルジュはただちに自分の夫に声をかけて自分がそれを取って来ようと言い、編物をしながら、中庭を通って、ランプの光の届かぬところへ歩いて行った。彼女は急いでそれを持って降りて来て、馬車の中へそれを手渡しした。――そしてすぐに入口の側柱に凭れかかって編物をし、何も見ようとしなかった。
 ドファルジュは馭者台に乗って、「城門へ!」と命じた。馭者は鞭をひゅうっと鳴らし、一同の乗った馬車は弱い光を放って頭上に吊り下っている街灯の下をがらがらと走って行った。
 頭上に吊り下っている街灯――立派な街になるほどますます明るく、悪い街になるほどますます薄暗く吊り下っている――の下を通って、また、灯火のついた店や、楽しげな群集や、灯光で装飾された珈琲店や、劇場の入口などの傍を通り過ぎて、市門の一つへと。そこの衛兵所の、角灯を持った兵士たち。「免状だ、旅行者たち!」「ではこれを御覧下さい、お役人さん。」とドファルジュが、馬車から降りて、その役人たちを由々しげに離れたところへ連れてゆきながら、言った。「これが車内の頭の白い人の旅行免状です。この免状は、あの人と一緒に、わっしが――で引渡されまし――」 彼は声を低くした。すると衛兵たちの角灯の間にざわめきが起った。そして、その角灯の一つが軍服を著た腕で馬車の中へ突き入れられると、その腕に接続した眼が、不断の日の、いや不断の夜の眼付とは違った眼付で、その頭の白い人を眺めた。「よろしい。通れ!」と軍服から。「御機嫌よろしゅう!」とドファルジュから。そして、だんだんと光の弱くなってゆく頭上に吊り下っている街灯がしばらく続いている下を通って、星が広くたくさん輝いている下へ。

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