現れたのであった。そして、その表情は、壁に沿うて彼の姿の見られるところまでそうっと歩いて来て、今はそこに彼を見つめながら立っている令嬢の、美しい若い顔にも寸分の違いなくそっくりに現れたので、――その彼女は、最初は、たとい彼を近づけず彼の姿を見まいとするためではないにしても、恐怖を交《まじ》えた憐憫の情から両手をただ挙げていただけであったのに、今は、亡霊のような彼の顔を自分の暖かな若い胸に休ませて、それを愛撫して生命と希望とに引戻してあげたいという熱望で震わせながら、その手を彼の方に差し伸べていたのであるが、――その表情は彼女の美しい若い顔にも寸分の違いなく(もっともその性質はいっそう強かったが)そっくりに現れたので、移り動く光のようにそれが彼から彼女に移ったのかと思われるくらいであった。
暗黒がその表情に代って彼に覆いかぶさっていた。彼が二人を見つめる注意が次第次第に弱くなり、その眼は陰鬱な放心状態で前のようにして床《ゆか》を捜し自分の周りを見※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]した。遂に、深い長い吐息を一つつくと、彼は靴を取り上げて、また仕事にかかった。
「あの方《かた》だという見分けがおつきになりましたか、旦那《ムシュー》?」とドファルジュが囁き声で尋ねた。
「つきました。一瞬間ですがね。最初はわたしはそれを全く望みがないと思いましたが、ほんの一瞬間、わたしが以前よっく知っていた顔を確かに見ました。しいっ! わたしたちはもっと後へさがりましょう。しいっ!」
彼女は屋根裏部屋の壁のところから離れて、彼の腰掛けている腰掛台《ベンチ》のごく近くまで行っていた。手を差し出せば身を屈めて仕事をしている自分に触れるところにいる人の姿をも意識しない彼の様子には、何となくぞっとするようなところがあった。
一語も話されなかったし、何の音も立てられなかった。彼女は彼の傍に精霊のように立っていたし、彼は仕事をしながら屈んでいた。
そのうちに、彼は手に持っている道具を靴造り用の小刀《ナイフ》に持ち替える必要が出来た。その小刀《ナイフ》は彼女の立っている側と反対の側にあった。それを取り上げて、再び仕事にかかろうと屈んだ時に、ふと彼女の衣服の裾《スカート》が目についた。彼は眼を上げて、彼女の顔を見た。傍に見ていた二人の者ははっとして前へ出た。が、彼女は片手を動して彼等を制止し
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