も動かしにくく、動きだしても最初の数歩のうちはそれよりも厄介で、ためらっているのと同様なのだ。もう一つ例を挙げよう。往来の商店の看板のなかでどんなのがいちばん注意をひくかということを、君はいつか気をつけたことがあるかい?」
「そんなことは考えてみたこともないね」と私は言った。
「地図の上でやる字捜しの遊びがある」と彼はまた話しつづけた。「一方の者がまず――町の名でも、河の名でも、州の名でも、国の名でも――つまり、いろんな色のついたごちゃごちゃした地図の表面にあるどんな名でも言って――相手に捜させるんだ。この遊びの初心者はたいがい、いちばん細かい字で書いてある名を言って相手を困らせようとする。けれども玄人《くろうと》は、大きな字で地図の端から端までひろがっているような名を選ぶのだ。そういう文字は、あまり大きすぎる字で書いてある往来の看板や貼札《びら》と同じように、あまり明瞭すぎるためにかえって人眼につかない。そしてこの物理的の見落しは、知能が、あまりひどく、あまり明白にわかりきっていすぎる事がらを気づかずに過すという精神的の不注意と、ちょうど類似しているものなんだ。しかし、こういうことはあの総監の理解力のいくぶん上か、あるいは下のことであるらしいね。彼は、大臣があの手紙を誰にも気づかれないようにするいちばんよい方法として、それをみんなのすぐ鼻先に置きそうだとか、あるいは置いたかもしれないなどということは、一度だって考えたこともありゃしないのさ。
 だが僕は、D――の大胆な、思いきった、明敏な工夫力と、彼がその書類を有効に使おうと思うなら常にそれを手近に[#「手近に」に傍点]置かなければならないという事実と、それが総監のいつもの捜索の範囲内には隠されていないという、その決定的な証言とを考えれば考えるほど、――大臣がその手紙を隠すのに、ぜんぜんそれを隠そうとはしないという遠大な、賢明な方策をとったのだということがわかってきたのだ。
 てっきりそうにちがいないと思いながら、僕は緑色の眼鏡を用意して、ある晴れた朝、ひょっこり大臣の邸を訪問した。D――は在宅していて、例のとおり欠伸《あくび》をしたり、ぶらぶらしたり、のらくらしたりして、退屈《アンニュイ》でたまらないというふりをしていた。彼はおそらく現代での、もっともほんとうに精力的な人間だろう、――が、それは誰も見ていないとき
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