ワード・ステープルトン氏はチフス熱のために外見上死んだのであるが、その病気は、医師たちの好奇心をそそるような異常な徴候をあらわしたのであった。彼がこうして外見上死ぬと、彼の親戚は死体解剖の許可を請われたが、彼らはそれを拒絶した。そのように拒絶された場合にはよくあるように、医者たちはこっそりと死体を墓から掘り出してゆっくり解剖しようと決心した。ロンドンのどこにでもたくさんいる死体盗人団(9)のあるものによってたやすく手配されて、葬儀がすんでから三日目の夜に、その死体だと思われていた体は八フィートの深さの墓から掘り出されて、ある私立病院の手術室に置かれた。
 腹部に実際ある程度の切開をしたときに、その体が生き生きして腐敗していない様子なので、電池をかけることを思いつかせたのであった。つぎつぎに幾回となく実験がつづけられ、普通のとおりの結果があらわれたが、ただ一、二度起った痙攣《けいれん》的な動作のなかに普通以上の生気があったほかには、どんな点でもべつに大して変ったことはなかった。夜が更けた。そして間もなく明け方になろうとしていたので、とうとうすぐに解剖にとりかかったほうがいいということになった。しかし一人の研究生がとくに自説を試してみたいと思い、胸部の筋肉の一つに電池をかけることを主張した。そこでちょっとした切りこみをこさえ、電線を急いで接《つな》いだ。すると患者はたちまち、あわただしいが少しも痙攣的ではない動作で手術台から立ち上がり、床の中央へ歩きだして、ちょっとのあいだ自分の周囲を不安そうに眺めまわしてから――しゃべった。なんと言ったのかわからなかった。がたしかに言葉であった。音節ははっきりしていた。しゃべってから、彼はばったりと床の上に倒れた。
 しばらくのあいだ、すべての人々は恐怖のために麻痺《まひ》したようになった、――が急ぎの場合でそうもしていられないので間もなくみんなは気をとりなおした。ステープルトン氏は気絶してはいるが生きているのだ、ということがわかった。エーテルを吸わせると彼は生き返り、それからさっさと健康を回復して、間もなく友人たちのあいだへ戻った、――彼らには彼の生き返ったいっさいの事情は病気の再発の懸念がなくなるまで知らされなかったが。彼らの驚き――彼らのうきうきの驚喜――はたやすく想像できよう。
 しかしこの出来事のもっとも戦慄すべき特異性は、ステープルトン氏自身が言っていることのなかにあるのである。彼は、どんなときでもまったく無感覚になったことはない、――医師に死んだ[#「死んだ」に傍点]と言われた瞬間から病院の床の上に気絶して倒れた瞬間にいたるまで、ぼんやり、雑然とだが、自分の身に起ったことはみな知っていた、と言っている。彼が解剖室という場所に気づいたときに、その窮境にあって一所懸命に言おうとしたあの意味のわからなかった言葉というのは、「私は生きているのだ」という言葉であったのだ。
 このような記録をたくさん並べたてるのはたやすいことであろう、――が私はいまそんなことはしまい、――早すぎる埋葬が実際に起るものだという事実を立証するような必要はべつにないからである。そのことの性質から言って、たいへん稀《まれ》にしか我々の力ではその早すぎる埋葬を見つけることができないことを考えるならば、それが我々に知られることなく頻繁に[#「頻繁に」に傍点]起るかもしれないということは認めないわけにはゆかない。実際、なんらかの目的で墓地がどれだけか掘り返されるときに、骸骨がこのいちばん恐ろしい疑惑を思いつかせるような姿勢で見出されないことはほとんどないのである。
 この疑惑は恐ろしい、――がその運命となるともっと恐ろしい! 死ぬ前の埋葬ということほど、このうえもない肉体と精神との苦痛を思い出させるのにまったく適した事件が他にない[#「ない」に傍点]ということは、なんのためらいもなく断言してよかろう。肺臓の堪えがたい圧迫――湿った土の息づまるような臭気――体にぴったりとまつわりつく屍衣《きょうかたびら》――狭い棺のかたい抱擁――絶対の夜の暗黒――圧しかぶさる海のような沈黙――眼には見えないが触知することのできる征服者|蛆虫《うじむし》の出現――このようなことと、また頭上には空気や草があるという考え、我々の運命を知りさえしたら救ってくれるために飛んでくるであろうところの親しい友人たちの思い出、しかし彼らにどうしても[#「どうしても」に傍点]この運命を知らすことができぬ――我々の望みのない運命はほんとうに死んだ人間の運命と少しも異ならない、という意識、――このような考えは、まだ鼓動している心臓に、もっとも大胆な想像力でもひるむにちがいないような驚くべき耐えがたい恐怖を与えるであろう。我々は地上ではこんなにも苦しいことを知らない、――地下の地獄のなかでさえこの半分の恐ろしさをも想像することができない。そして、このようにこの題目に関する物語はみな、実に深い興味を持っている。しかもその興味はその題目自身の神聖な畏怖《いふ》をとおしてたいへん当然に、またたいへん特別に、物語られる事がらが真実[#「真実」に傍点]であるという我々の確信から起るものである。ここに私が語ろうとすることも、私自身の実際の知識――私自身の確実な個人的な経験による話なのである。
 数年のあいだ私は奇妙な病気に悩まされていたが、医者はその病気を、それ以上はっきりした病名がないために類癇《るいかん》(10)と呼ぶことにしている。この病気の直接的なまた素因的な原因や、また実際の症状さえもまだはっきりわからないのであるが、その外見上の明らかな性質は十分に了解されているのである。そのさまざまな変化は主として病気の程度によるものらしい。ときに患者はたった一日か、またはもっと短いあいだだけ、一種のひどい昏睡状態に陥る。彼は無感覚になり、外部的には少しも動かぬ。が心臓の鼓動はまだかすかながら知覚される。温みもいくらかは残っている。かすかな血色が頬のまん中あたりに漂っている。そして唇のところへ鏡をあててみると、肺臓ののろい、不規則な、頼りない運動を知ることができる。それからまた昏睡状態が幾週間も――幾月さえもつづく。そのあいだは、もっとも精密な検査やもっとも厳重な医学上の試験も、その患者の状態と我々の絶対的の死と考えるものとのあいだに、なんらの外部的の区別を立てることができない。彼が早すぎる埋葬をまぬかれるのはたいてい必ず、ただもと類癇にかかったことがあるのを近親の者たちが知っていること、それにつづいて起る類癇ではなかろうかという疑い、とりわけ腐敗の様子の見えないこと、などによってである。病気の昂進《こうしん》するのは幸いにもごく少しずつである。最初の徴候は目立つものではあるが、死と紛らわしくはない。発作はだんだんにはっきりしてきて、一回ごとに前よりも長時間つづく。これが埋葬をまぬかれる主な理由なのである。しかしときどきあるように、最初[#「最初」に傍点]の発病が過激な性質のものである不幸な人々は、ほとんど不可避的に生きながら墓のなかへ入れられるのである。
 私自身の病症は主な点では医学書にしるされているものとべつに違っていなかった。ときどき、なんのはっきりした原因もなく、私は少しずつ半仮死あるいはなかば気絶の状態に陥った。そして苦痛もなく、動く力も、また厳密に言えば考える力もなく、ただ生きていることと、自分の病床を取りまいている人々のいることとをぼんやりと麻痺したように意識しながら、病気の危機がとつぜん過ぎ去って完全な感覚が戻ってくるまで、じっとそのままでいるのだった。またあるときは、急に猛烈におそわれた。胸が悪くなって、体がしびれ、ぞっと寒気《さむけ》がし、眼がくらみ、やがてすぐばったりと倒れる。それから数週間も、なにもかも空虚で、真っ黒で、ひっそりしていて、虚無が宇宙全体を占める。もうこれ以上のまったくの寂滅はありえない。しかし、このような急な病気から目覚めるのは、発作がとつぜんであったわりあいにぐずぐずしていた。ちょうど長いわびしい冬の夜じゅう、街をさまよい歩いている友もなく家もない乞食に夜が明けるように――そんなにのろのろと――そんなに疲れはてて――そんなに嬉しく、霊魂の光が私にふたたび戻ってくるのであった。
 しかしこの昏睡の病癖をべつにしては、私の健康は一般にいいように見えた。また私は自分が一つの大きな疾患にかかっているとはぜんぜん考えることができなかった、――ただ私の普通の睡眠[#「睡眠」に傍点]の特異性がもっとひどくなったものと考えられることをのぞいては。眠りから覚めるとき、私は決してすぐに意識を完全に取りもどすことができなくて、いつも何分間も非常な昏迷と混乱とのなかにとり残されるのであった。――そのあいだ一般の精神機能、ことに記憶が、絶対的中絶の状態にあった。
 私のいろいろ耐えしのんだことのなかで肉体的の苦痛は少しもなかったが、精神的の苦痛となると実に無限であった。私は死に関することばかりを考えた。「蛆虫と、墓と、碑銘」のことを口にした。死の幻想に夢中になって、早すぎる埋葬という考えが絶えず私の頭を支配した。このもの凄《すご》い虞《おそ》れが昼も夜も私を悩ました。昼はそのもの思いの呵責《かしゃく》がひどいものであったし――夜となればこのうえもなかった。恐ろしい暗黒が地上を蔽うと、ものを考えるたびの恐怖のために私は身震いした、――柩車《きゅうしゃ》の上の震える羽毛飾りのように身震いした。このうえ目を覚ましているわけにはゆかなくなると、眠らないでいようともがきながらやっと眠りに落ちた、――というのは、目が覚めたときに自分が墓のなかにいるかもしれないと考えて戦慄したからである。こうしてやっと眠りに落ちたとき、それはただ、一つの墓場の観念だけがその上に大きな暗黒の翼をひろげて飛びまわっている幻想の世界へ、すぐに跳びこむことにすぎなかった。
 このように夢のなかで私を苦しめた無数の陰鬱な影像のなかから、ここにただ一つの幻影を選び出してしるすことにしよう。たしか私はいつものよりももっと長く深い類癇の昏睡状態に陥っていたようであった。とつぜん、氷のように冷たい手が私の額《ひたい》にさわって、いらいらしたような早口の声が耳もとで「起きろ!」という言葉をささやいた。
 私はまっすぐに坐りなおした。まったくの真っ暗闇だった。私は自分を呼び起したものの姿を見ることができなかった。どんな場所に横たわっていたかということも、思い出せなかった。そのまま身動きもしないで一所懸命に考えをまとめようとしていると、その冷たい手が私の手首を強くつかんで怒りっぽく振り、そしてあの早口の声がもう一度言った。
「起きろ! 起きろと言っているじゃないか?」
「と言っていったいお前は誰だ?」と私は尋ねた。
「おれはいま住んでいるところでは名前なんぞないのだ」とその声は悲しげに答えた。「おれは昔は人間だった、がいまは悪霊だ。前は無慈悲だった、がいまは憐《あわ》れみぶかい。お前にはおれの震えているのがわかるだろう。おれの歯はしゃべるたびにがちがちいうが、これは夜の――果てしない夜の――寒さのためではないのだ。だが、この恐ろしさはたまらぬ。どうしてお前は[#「お前は」に傍点]静かに眠ってなどいられるのだ? おれはあの大きな苦痛の叫び声のためにじっとしていることもできない。このような有様はおれには堪えられぬ。立ち上がれ! おれと一緒に外の夜の世界へ来い。お前に墓を見せてやろう。これが痛ましい光景ではないのか? ――よく見ろ!」
 私は眼を見張った。するとその姿の見えないものは、なおも私の手首をつかみながら、全人類の墓をぱっと眼前に開いてくれた。その一つ一つの墓からかすかな腐朽の燐光《りんこう》が出ているので、私はずっと奥の方までも眺め、そこに屍衣を着た肉体が蛆虫とともに悲しい厳かな眠りに落ちているのを見ることができた。だが、ああ! ほんとうに眠っている者は、ぜんぜん眠っていない者よりも何百万も少な
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