我に返るのが、ことに記憶力を回復するのが、困難なことから、自然に起ったことであった。私を揺り動かしたのは、この帆船の船員と、その荷揚げをする人夫たちであった。その船の荷から土の匂いがしたのだ。顎のあたりに結わえてあったものというのは、いつものナイトキャップがないのでそのかわりに頭から巻きつけておいた絹のハンケチなのであった。
 しかし私の受けた苦痛は、そのときはたしかに実際に埋葬された苦痛とまったく同じものであった。その苦痛は恐ろしく――想像もつかぬほど、戦慄すべきものであった。しかし凶から吉が生れるようになった、というのは、その過度の苦痛が私の心に必然的の激変を起したからである。私の心は強くなり――落ちついてきた。私はどこへでもでた。活溌な運動もした。大空のひろびろとした空気を呼吸した。死よりもほかのことを考えるようになった。いろいろの医学書に手をふれないようになった。バッカン(11)の書物を焼きすてた。「夜の思い(12)」も――墓地に関する嘘話も――妖怪物語も――すべてそんなもの[#「すべてそんなもの」に傍点]は読まなくなった。要するに私は新たな人間になり、立派な男としての生活をするようになった。その記憶すべき夜から、私は永久に墓場の恐怖を忘れてしまった。それとともに類癇の病気も起らなくなった。あの墓場の恐怖は病気の結果であるよりも、むしろその原因であったのであろう。
 我々の悲しい人類の世界が、理性の冷静な眼にさえも、地獄の相を示すときがある。――しかし、人間の想像は、その地獄の洞窟を一つ一つ罰せられることなくして探るところのカラティス(13)のようなものではない。ああ! 墓場の恐怖のあのもの凄い幽霊らはまったく空想的なものと見なすことができないのだ。――しかしオグザス河(14)を下ってアフラシアブ(15)とともに旅をしたかの悪魔たちのように、彼らは眠らねばならぬ。でなければ彼らは我々を食いつくすであろう。――彼らは眠るようにさせられなければならぬ。でなければ我々は滅びるのだ。


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(1) 一八一二年、ナポレオンの軍隊がモスコーより退却しミンスク県のベレジナ河を渡るときロシア軍に襲撃され、十一月二十六日より二十九日にわたって数万のフランス兵が殺戮《さつりく》されあるいは溺死《できし》した。捕虜となった者一万六千人。
(2) 一七五五年十一月一日のリスボンの大地震。死者約四万人に達した。
(3) 一六六五年よりその翌年にかけて、ロンドンに疫病が流行し、当時のロンドンの住民の約三分の一、七万人が斃《たお》れた。
(4) 一五七二年八月二十四日、セント・バーソロミューの祭日の夜半から始まったパリおよび各地方におけるフランスの新教徒《ユグノー》の大虐殺。その犠牲者の数は二万ないし三万にのぼった。
(5) 一七五六年六月二十日、インド土人の大守シュラジャー・ドーラーによって、百四十六人のイギリス人の俘虜が、カルカッタのわずか十八フィート四方の狭い牢獄のなかへ押しこまれた。その翌朝、二十三人をのぞいて他の百二十三人はことごとく窒息のために死んでいた。
(6) 旧約伝道の書第十二章第六―七節、「然《しか》る時には銀の紐[#「銀の紐」に傍点]は解け金の盞[#「金の盞」に傍点]は砕け吊瓶《つるべ》は泉の側に壊《やぶ》れ轆轤《くるま》は井《いど》の傍《かたわら》に破《わ》れん、而《しか》して塵《ちり》は本《もと》の如《ごと》く土に帰り霊魂《たましい》はこれを賦《さず》けし神にかえるべし」
(7) 穿顱錐《せんろすい》で頭蓋骨を穿《うが》つ手術。あるいは円錐《えんきょ》術とも言う。
(8) 静脈を切って血を出す治療法。
(9) body−snatcher――解剖の目的のためにひそかに墓をあばいて死体を盗む者。イギリスにおいては一八三二年に解剖法令が出るまでは、ただ殺人者の死体だけが解剖を許されていたが、解剖学の進歩とともに死体が大いに不足するにいたった。そこでこの「死体盗人」というものがおびただしくできて、諸所の墓をあばいて死体を盗み、それを解剖者に売ることを業としたのである。(それを防ぐためには鉄の棺に入れて埋葬しなければならなかったという)――この死体盗人はまた resurrectionist とも言われる。このステープルトン氏を発掘した連中のごときはまさに言葉本来の意味での resurrectionist であろう。
(10) Catalepsy――類癇、または全身硬直と訳される。
(11) Buchan(一七三八―九一)スコットランドの宗教狂信家。彼女は自らヨハネ黙示録第十二章の婦であると信じ、その信者は Buchanites と称せられた。
(12) “Night Thoughts”――E
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