らくもっと危険な誘惑物なども欠けてはいなかった。というわけだったから、私たちの有頂天の乱痴気騒ぎがその絶頂に達しているうちに、東の方ははやかすかにほんのりと白みかかっていたのだった。骨牌《かるた》と酩酊《めいてい》とのために狂ったように興奮して、私がまさにいつも以上の不埒《ふらち》な言葉を吐いて乾杯を強《し》いようとしていたちょうどこのとき、とつぜん自分の注意は、部屋の扉が少しではあるがはげしく開かれて、外から一人の小使がせかせかした声で呼んでいるのに、逸《そ》らされた。彼は、誰か急用のあるらしい人が、玄関のところで私に会って話したいと言っている、と告げた。
ひどく酒に酔っぱらっていたので、この思いがけない邪魔が入ったことは、私を驚かせるよりもむしろ喜ばせた。すぐさま私は前へよろめいてゆき、五、六歩歩くとその建物の玄関へ出た(8)。その低い小さな室《へや》にはランプは一つもかかっていないので、そのときは、一つの半円形の窓から射《さ》しこんでくるごくかすかな暁の光のほかには、光はぜんぜん入っていなかった。その室の閾《しきい》をまたいだとき、私は自分と同じくらいの背の高さで、自分がそのとき着ていたもののように最新流行型に仕立てた白いカシミヤのモーニング・フロックを着た、一人の青年の姿に気がついた。それだけのことは、そのかすかな光で認められた。が、彼の顔の目鼻だちは見分けることができなかった。私が入ってゆくと、その男は急いで私の方へずかずかと歩みよって、怒りっぽいじれったそうな身ぶりで私の腕をつかみながら、私の耳もとで「ウィリアム・ウィルスン!」とささやいた。
私はたちまち、すっかり酔いがさめてしまった。
その見知らぬ男の態度には、また光と私の眼とのあいだに揚げた彼の指のぶるぶる震えていたことには、私にまったくの驚愕《きょうがく》の念を感じさせるものがあった。が、私をそれほどはげしく感動させたのは、そのことではなかった。それは、奇妙な、低い、叱《しか》るような声の厳かな警告の意味ふかさであった。また、とりわけ、過ぎし日の多くの群がりよる記憶を呼び起し、私の魂に電流に触れたような衝撃を与えた、あの短い、単純な、よく聞きなれた、しかもささやくような[#「ささやくような」に傍点]声の性質、音色、調子[#「調子」に傍点]であったのだ。私がやっと感覚の働きを回復したときには、その男はもう見えなかった。
この出来事は私の錯乱した想像力に強烈な効果をたしかに与えずにはいなかったが、それでもその効果は強烈であると同様に一時的なものだった。実際、何週間かは、私は熱心な詮議《せんぎ》に没頭したり、病的な考究の雲に包まれたりした。私は、そのように根気よく自分のなすことに干渉し、あてつけに忠告をして自分を悩ませるその不思議な人物が誰であるかということを、知らないふりをしようなどとはしなかった。しかし、このウィルスンとは何者であるか? ――そして彼はどこから来たのか? ――また彼はなにをするつもりなのか? こういう事がらになると自分にはそのなかの一つも満足にわからなかった。――ただ、彼について確かめることのできたのは、彼の家族に突然なにかの出来事があって、そのために彼はブランスビイ博士の学校を、私自身が逃げ出したあの日の午後に退いた、ということだけであった。しかし、やがて私はその事がらについて考えることはやめてしまった。オックスフォードへ向って出発しようと思っていたので、それに自分の注意はすっかり取られたのだ。間もなくそこへ行ったが、私の両親の無考えな虚栄は、私に、すでに自分の心にはごく親しいものであった奢侈《しゃし》に思いのままにふけることが――大ブリテンでももっとも金持の貴族の傲慢な子弟たちと金遣いの荒さでは張りあうことが――できるようにさせたほどの小遣いと年々の費用とを、あてがってくれた。
そういうような悪徳に都合のいい手段に励まされて、生来の気質はすぐに二倍もはげしくなり、私は常軌を逸した飲み騒ぎに惑溺《わくでき》し、普通の世間体の拘束さえも蹴《け》とばしてしまったのだった。しかし自分の乱行をここで詳しく書きたてるのはばかげたことであろう。ただ、自分が金遣いの荒い道楽者連中のあいだでも群を抜いていたということと、あまたの新しい愚行を考え出して、ヨーロッパじゅうでもいちばん放縦な大学でその当時常に行われていた悪徳の長い目録《カタログ》に、かなりの増補を加えたということとを、言っておくだけにしよう。
だが、ここでさえも、私が紳士としての身分からまったく堕落して、職業的の賭博者《とばくしゃ》の陋劣《ろうれつ》きわまる手管《てくだ》を覚えこもうとし、また、その卑劣な術策の達人になってからは、いつもそれを実行して、仲間の学生たちのなかの愚鈍な連中か
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