ってさっとあけはなった。
猛《たけ》り狂って吹きこむ烈風は、ほとんど私たちを床から吹き上げんばかりであった。実に大荒れの、しかし厳かにも美しい夜、また、そのもの凄《すご》さと美しさとではたとえようもない不思議な夜であった。まさしく旋風がこのあたりにその勢いを集中しているらしく、風向きはしげしげと、また猛烈に変り、非常に濃く立ちこめている雲(それはこの家の小塔を圧するばかりに低く垂れていた)も、遠くへ飛び去ることなく、四方八方から互いにぶつかりあって疾走しながら飛んでくるその生命《いのち》あるもののような速さを、認めることを妨げはしなかった。
いかにも、非常に濃く立ちこめている雲も、こういう有様を認めることを妨げはしなかった、――が月や星はちらりとも見えなかった、――また稲妻のひらめきもなかった。しかし、我々のすぐ周囲のあらゆる地上の物象だけでなく、騒ぎたっている雲の巨大な塊の下面までが、屋敷のまわりに垂れこめてそれを包んでいる、ほのかに明るい、はっきりと見えるガスの蒸発気の奇怪な光のなかに輝いているのであった。
「見ちゃいけない――これは君には見させない!」と私は、アッシャーをやさしくまた強く窓ぎわから椅子《いす》の方へ連れもどるときに、身ぶるいしながら言った。「君を迷わせるこの有様は、珍しくもないただの電気の現象なのだ。――それとも沼のひどい毒気が、このもの凄い有様の原因になっているのかもしれない。この窓をしめようじゃないか。空気は冷たくて、君の体には毒だ。ここに君の好きな物語が一冊ある。読んで聞かせてあげよう。――そして一緒にこの恐ろしい夜を明かすことにしよう」
私の取りあげた古い書物はラーンスロット・キャニング卿《きょう》の『狂える会合』であったが、それをアッシャーの好きな書物と言ったのは、真面目《まじめ》でというよりも悲しい冗談で言ったのだ。なぜかといえば、この書物のまずい、想像力にとぼしい冗漫さのなかには、たしかに、友の高い知的の想像力にとって興味を持つことのできるものはほとんどなかったからである。しかし、それはすぐ手近にある唯一《ゆいいつ》の本であったし、また私は、今この憂鬱《ゆううつ》症患者の心をかき乱している興奮が、これから読もうとする極端にばかげた話のなかにさえ慰安を見出《みいだ》すかもしれない(精神錯乱の記録はこの種の変則に満ちているのだから)、というかすかな希望をいだいたのであった。実際、彼が物語の文句に耳を傾けている、あるいは見たところいかにも耳を傾けているらしい、異常に緊張した生き生きした様子で判断することができるのなら、私は自分の計画のうまく当ったことを喜んでもいいわけであった。
私は、この本の主人公エセルレッドが隠者の住居に穏やかに入ろうとして入れないので、力ずくで入ろうとする、あの有名なところへ読みかかった。ここでは、人の知るとおり、物語の文句は次のようになっている。――
「かくて生れつき心|猛《たけ》くそのうえに飲みたる酒の効き目にていっそう力も強きエセルレッドは、まこと頑《かたく》なにして邪《よこしま》なる隠者との談判を待ちかね、おりから肩に雨の降りかかるを覚えて、嵐の来らんことを恐れ、たちまちその鎚矛《つちぼこ》を振り上げていくたびか打ち叩き、間もなく扉の板張りに、籠手《こて》はめたる手の入るほどの穴をぞ穿《うが》ちける。かくてそこより力をこめて引きたれば、扉は破れ、割れ、微塵《みじん》に砕けて、乾きたる空洞《うつろ》に響く音は、森もとどろにこだませり」
この文章の終りで私はぎょっとして、しばらくのあいだ言葉を止めた。というわけは、(すぐ自分の興奮した空想にだまされたのだと思いかえしはしたが)屋敷のどこかずっと遠いところから、ラーンスロット卿が詳しく書きしるしたあの破れわれる音の反響(抑えつけられたような鈍いものではあったが)にそっくりな物音が、かすかに私の耳に聞えてきたような気がしたからである。もちろん、ただその偶然の一致ということだけが私の注意をひいたのであった。窓枠《まどわく》のがたがた鳴る音や、なおも吹きつのる嵐のいつもの雑然たる騒がしい音のなかでは、そんな物音はただそれだけでは、もとより私の注意をひいたり、私をおびえさせたりするはずがなかったからである。私は物語を読みつづけた。――
「しかるにすぐれたる戦士エセルレッドは、いまや扉のなかに入り、かの邪《よこしま》なる隠者の影すらも見えざるに怒り、あきれ果てぬ。されど、そのかわりには、鱗《うろこ》生えて巨《おお》いなる姿の一頭の竜《りゅう》、炎の舌を吐きつつ、白銀《しろがね》の床しきたる黄金の宮殿の前にぞ蹲《うずくま》りてまもりける。しかしてその壁には輝ける真鍮《しんちゅう》の楯《たて》かかりて、次のごとき銘しるされたり。――
[#ここから2字下げ]
ここに入る者は勝利者たりしもの。
この竜を殺す者はこの楯を得む。
[#ここで字下げ終わり]
ここにおいてかエセルレッドは鎚矛を振り上げ、竜の頭上めがけて打ちおろしければ、竜は彼の前にうち倒れ、毒ある息を吐きあげて、恐ろしくもまた鋭き叫び声をあげたるが、その突き刺すばかりの響きには、さすがのエセルレッドも両手もて耳を塞《ふさ》ぎたるほどにて、かかる恐ろしき声はかつて世に聞きたることもなかりき」
ここでまた私はとつぜん言葉を止めた、今度ははげしい驚きを感じながら。――というのは、この瞬間に、低い、明らかに遠くからの、しかし鋭い、長びいた、まったく異様な、叫ぶようなまたは軋るような音――この物語の作者の書きしるした竜の不思議な叫び声として私がすでに空想で思い浮べていたものとまさしくそっくりな物音――を実際に聞いた(もっともどちらの方向からということは言えなかったが)ことは、なんの疑いもなかったからである。
この二度目の、しかも異常な暗合に出会って、主に驚きと極度の恐怖との勝《まさ》ったさまざまな矛盾した感情に圧倒されながら、それでもなお私は、なにかそのことを口に出して友の過敏な神経を興奮させることを避けるだけの落着きを失わなかった。彼の挙動にはたしかにこの数分間に奇妙な変化が起っていたけれども、例の物音に気づいているとは思われなかった。彼は私に向きあった位置から、その部屋の扉の方に顔を向けて腰をかけられるように、少しずつ椅子をまわしていた。だから私にはほんの一部分しか彼の顔が見えなかった。ただ聞きとれないほど低く呟いてでもいるように唇《くちびる》が震えているのが見えた。頭は胸のところへうなだれていたが、横顔をちらりと見ると眼は大きくしっかり見開いているので、眠っているのではないことがわかった。体を動かしているということも、眠っているという考えとは相容《あいい》れないものであった。――静かに、しかし絶えず同じ調子で、体を左右にゆすっているのである。すばやくこれだけのことをみんな見てとってから、私はラーンスロット卿の物語を読みつづけたが、それは次のようであった。――
「かくて今や竜の恐ろしき怒りをまぬかれたる戦士は、かの真鍮の楯を思い浮べ、そが上にしるされたる妖術《ようじゅつ》を解かんとて、竜の骸《むくろ》を道より押しのけ、勇を鼓して館《やかた》の白銀の床を踏み、楯のかかれる壁へ近づきけるに、楯はまことに彼の来たり取るを待たずして、そが足もとの白銀の床の上に、いとも大いなる恐ろしく鳴りひびく音をたてて落ち来たりぬ」
この言葉が私の唇から洩《も》れるや否《いな》や――まるでほんとうに真鍮の楯がそのとき銀の床の上に轟然《ごうぜん》と落ちたかのように――はっきりした、うつろな、金属性の、鏘然《そうぜん》たる、しかし明らかになにか押し包んだような反響が聞えたのだ。私はまったく度胆《どぎも》をぬかれて跳び上がった。がアッシャーの規則的な体をゆする運動は少しも乱れなかった。私は彼のかけている椅子のところへ駆けよった。彼の眼はじっと前方を見つめていて、顔面には石のように硬《こわ》ばった表情がみなぎっていた。しかし、私が手を肩にかけると、彼の全身にはげしい戦慄《せんりつ》が起った。陰気な微笑が彼の唇のあたりで震えた。そしてまるで私のいるのを知っていないかのように、低く、早口に、とぎれとぎれに呟いているのを私は見た。ぴったりと彼の上に身をかがめて、やっと私は彼の言葉の恐ろしい意味を夢中に聞きとった。
「聞えない? ――いや、聞える、前から[#「前から」に傍点]聞えていたのだ。長い――長い――長いあいだ――何分も、何時間も、幾日も、前から聞えていたのだ、――が僕には――おお、憐《あわ》れんでくれ、なんと惨《みじ》めなやつだ! ――僕には――僕には思いきって[#「思いきって」に傍点]言えなかったんだ! 僕たちは彼女を生きながら墓のなかへ入れてしまったのだ[#「僕たちは彼女を生きながら墓のなかへ入れてしまったのだ」に傍点]! 僕の感覚が鋭敏なことは前に言ったろう? いまこそ[#「いまこそ」に傍点]言うが、僕にはあの棺のなかで彼女が最初にかすかに動くのが聞えた。幾日も、幾日も前に――聞えたのだ、――だが僕には――僕には思いきって言えなかった[#「思いきって言えなかった」に傍点]のだ! そしていま――今夜――エセルレッドか――は! は! ――隠者の家の戸の破れる音、そして竜の断末魔の叫び、それから楯の鳴りひびく音か! ――それよりも、こう言ったほうがいい、彼女の棺のわれる音と、あの牢獄の鉄の蝶番の軋る音と、彼女が窖《あなぐら》の銅張りの拱廊のなかでもがいている音、とね! おお、どこへ逃げよう? もうすぐ彼女はここへやって来やしないだろうか? 僕の早まった仕業を責めに急いで来るのではないか? 階段を上がる彼女の足音が僕には聞えていないのか? 彼女の心臓の重苦しい恐ろしい動悸《どうき》がわかってはいないのか? 気違いめ!」――こう言うと彼ははげしく跳び上がった。そして死にそうなくらいの努力で一語一語をしぼり出した。――「気違いめ[#「気違いめ」に傍点]! 彼女はいまその扉の外に立っているのだぞ[#「彼女はいまその扉の外に立っているのだぞ」に傍点]」
彼の言葉の超人間的な力にまるで呪文《じゅもん》の力でもひそんでいたかのように――彼の差したその大きい古風な扉の鏡板は、たちまち、その重々しい黒檀《こくたん》の口をゆっくりうしろの方へと開いた。それは吹きこむ疾風の仕業だった、――がそのとき扉のそとにはまさしく[#「まさしく」に傍点]、背の高い、屍衣《きょうかたびら》を着た、アッシャー家のマデリン嬢の姿が立っていたのである。彼女の白い着物には血がついていて、その痩《や》せおとろえた体じゅうには、はげしくもがいたあとがあった。しばらくのあいだは、彼女は閾《しきい》のところでぶるぶる震えながら、あちこちとよろめいていた。――それから、低い呻《うめ》き声をあげて、部屋のなかの方へと彼女の兄の体にばったりと倒れかかり、はげしい断末魔の苦悶《くもん》のなかに彼をも床の上へ押し倒し、彼は死体となって横たわり、前もって彼の予想していた恐怖の犠牲となったのであった。
その部屋から、またその屋敷から、私は恐ろしさで夢中になって逃げ出した。古い土手道を走っているのに気がついたときには、嵐はなおも怒りくるって吹きすさんでいた。とつぜん、道に沿うてぱっと異様な光がさした。私の背後にはただ大きな家とその影とがあるだけであったから、そのようなただならぬ光がどこから来るのかを見ようと思って私は振りかえってみた。その輝きは、沈みゆく、血のように赤い、満月の光であった。月はいま、その建物の屋根から電光形に土台までのびていると前に言った、以前はほとんど眼につかぬくらいだったあの亀裂《きれつ》をとおして、ぎらぎらと輝いているのであった。じっと見ているうちに、この亀裂は急速に広くなった。――一陣の旋風がすさまじく吹いてきた。――月の全輪がこつぜんとして私の眼前にあらわれた。――巨大な壁が真っ二つに崩れ落ちるのを見たとき、私
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