が左方ずっと離れたところにある窓の高さまで行きつくと、それから先は進めなかった。せいぜいできることは、身を伸ばして部屋のなかをちらりと覗《のぞ》くことだけだった。そうして覗くと、彼はあまりの怖ろしさに、つかまっている手を危うく放しそうになった。モルグ街の住民の夢を破ったあの恐ろしい悲鳴が夜の静寂のなかに響きわたったのは、このときのことであった。寝衣《ねまき》を着たレスパネエ夫人と娘とは、部屋の真ん中に引き出してある、前に述べたあの鉄の箱のなかのなにかの書類を整理していたらしい。それはあけてあって、なかの物はその側の床の上に置いてあった。被害者たちは窓の方へ背を向けて坐っていたにちがいない。そして猩々の入りこんだのと、悲鳴のしたのとのあいだに経過した時間から考えると、すぐには猩々に気がつかなかったらしい。鎧戸のばたばたした音はきっと風の音だと思われたのであろう。
水夫が覗きこんだとき、その巨大な動物はレスパネエ夫人の髪の毛(ちょうど梳《す》いていたので解いてあった)をつかんで、床屋の手ぶりをまねて、彼女の顔のあたりに剃刀を振りまわしていた。娘は倒れていて身動きもしない。気絶していたのだ。老夫人が悲鳴をあげ、身もだえしたので(その間に髪の毛が頭からむしり取られたのだが)、猩々のたぶん穏やかな気持がすっかり憤怒の気持に変った。その力強い腕で思いきり一ふりすると、彼女の頭を胴体からほとんど切り離してしまった。血を見ると猩々の怒りは狂気のようになった。歯を食いしばり、両眼から炎を放って、娘の体に跳びかかり、その恐ろしい爪を咽喉へ突き立てて彼女の息が絶えてしまうまで放さなかった。猩々のきょろきょろした血ばしった眼つきが、このときふと寝台の頭の方へ落ちると、その向うに、恐怖のために硬《こわ》ばった主人の顔がちょっと見えた。たしかにあの恐ろしい鞭をまだ覚えていた猩々は、怒りがたちまち今度は恐怖に変った。罰を受けるようなことをしたと悟って、自分のやった凶行を隠そうと思ったらしく、ひどくそわそわして部屋じゅうをとびまわり、そのたびに家具をひっくり返したりこわしたりし、また寝台から寝具をひきずり落したりした。とうとう、まず娘の死体をつかんで、のちに見つけられたように、煙突のなかへ突き上げ、それから老夫人の死体をつかんで、すぐ窓から真っ逆さまに投げだした。
猩々がその切りさいなんだ死体
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