「すぐ頭の上の枝のところで、ぱっと光り物がしたと思うと、二人とも一緒に、同じ人の顔を見たのです。」
言ってしまってがっかりした顔をする。
「それで今夜はここに泊めて下さい。」
と哀願するように言う。
「それは泊めるとも!…泊めるからね、まあ心持ちを落ち付けたまえ。」と慰めると、彼は心の疲れた顔をして、
「小石川からここまでくるうちに、今にも殺されるかと幾度思ったか。」
と独り言を言う。……上唇がふるえていて、しばらくはからだの筋肉が、悉く固くなってしまったように、節々に力こぶを入れていたが、それがここにたどり着いた安心と、燈火《あかり》で明るい室に入ったのとで、次第にゆるんでくると、疲れた眠そうな顔になる。
私もそれよりほかに何にも、追窮しなかった。
四
それからは、荻原の素振りが少し変って、妙にうたぐり深く、私の心をさぐろうとする。私が何か彼の秘密の鍵をにぎっていはしないかと言うような心持ちがするらしい。
ところが、江戸川の桜が満開になった頃だった。私ははからずも、荻原が恐れていた、彼のその秘密の鍵を握ってしまった。
小石川の荻原の下宿で夜を更かして、帰ってくるのを、荻原が送ると言うので、江戸川までくると、夜更けて、花の陰に店を出している、大道易者がいたのを、冷やかす気で、見て貰うと、易者は何と思ったのか、荻原の顔を見て、
「あなたには女難がある」と言った。すると荻原はぐっと胸をつかれたと見えて、殆んど狂気《きちがい》のように、その易者に、
「ほんとですか、それはほんとですか。」
と哀願するように言う。私は驚いて、ぐいぐい引き立てて来たが、荻原はもう気がくたくたになっていて、泣き出しそうな声で、私をつかまえて、すっかり自分のことを話してしまった。
荻原は意外にも絶えず女に関係していた。少し前に見た、幻覚もそのため。……荻原は私を送ると言って私の家にくるまで、いくつも相手のちがっている、その恋の物語をした。そしてその晩は泊って行った。
そのうちに彼はふと、自分の室にいると、まざまざ知らぬ男の顔を見ると言って、それにひどくなやまされていたが、急に激しい心臓病にかかって、国に帰ってしまった。
国に帰ってからは、ただ煩悶々々と、当てのわからない、苦痛を訴えた手紙を繁々とよこしている。
底本:「遠野へ」葉舟会
1987(昭和
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