入口の唐紙が開いて人がはいって来た。
 自分はこんどは大きく目を開いていた。はいって来たのは例の男だった。自分の起きているのを見ると、ギョッとしたようだったが、火鉢の前に坐って、
「もう、目が覚めやしたか?」と言った。自分は返事をしなかった。すると、その男は知らん顔をして、頭のうえで昨夜、従兄と食べた残りの菓子を食い出した。そのうえに、急須に湯をついで、茶も飲む。自分は蹂躙されるような気がして、グッと頭を上げた。
 怒鳴ろうかと思ったが、あまりだと思って止めた。すると、その男は自分を見て、少し狼狽《うろた》えたがそれを隠そうとした。
「私に一つ演説を作ってくれませんか?」と突然なことをいう。
「何にするんだ?」
「明後日、演説会がありますから、私にも出てやれと言うですが。」
 自分は危くふき出そうとした。しばらく自分は黙っていると、その男は、
「あなたは、台湾で役人をしていた、弓削田《ゆげた》という人を知っとりますか。」と言う。
「知らんね。」自分は冷笑した。
「それは有名な人だそうなが、その人がここに来て泊った時に、お前はおもしろい男だと言って、私と一晩酒を飲みました。」と、手柄らしく言って、自分にほのめかした。自分は、
「そうか?」と言ったきり答えなかった。

     六

 その夜、木村は着いた。つぎの日に発つことにして、馬車を頼んだ。するとその男は、S港に出る方の馬車は毎日、たつ[#「たつ」に傍点]かどうか分らぬが、ともかく見てくると、例のようにもたせぶりをして行った。
 自分はそのあとで、この二三日のことを話して、木村に、
「少し金をやろうか?」と言うと、木村は、
「くせになるから止したまえ。たまにはあてがはずれるのもいい薬だ。」と言った。自分も同意した。
 やがて、例の男は帰えってくると、非常に骨を折ってやっと馬車ができたと、頻りに恩に着せた。
 自分はそれを感じない顔をしていた。

 つぎの朝、いよいよ発つと言う時に、従兄が少しおくれて、来てくれなかった。自分は別れも惜しい、それに少し話もあるからと思って、手紙を書いた。
 それを持って行って貰おうと思って、人を呼ぶと、例の男がにこにこしてはいって来た。
「これをすぐ持って行かしてくれ。」と手紙を出すと、俄かに剣のある顔をして、
「使いは出ません。いま家はいそがしくって……金を出せば行くものはありますが。」と言った。自分は木村と顔を見合わせたが、
「ではいい。」と投げつけるように言った。[#地から1字上げ](四十二年五月作)



底本:「遠野へ」葉舟会
   1987(昭和62)年4月25日発行
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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