りた。私達の馬車に続いた馬車からは、いろいろの人が降りた。判事さんは二三人の人に出迎えられていそがしそうに挨拶をすると、行ってしまった。私はくる時に、休んだおぼえのある家の門に立って道の方を見ていた。S君がもしや来はせぬかと思いながら……。
 私が目指しているH町からの馬車はまだこぬと言うことだ。宿のものは、いったい、今は道が非常に悪いので、いつくるか分らぬと言っている。私は路傍に投げ出されて、残されているような気がした。そして門に立ったままでいた。
 すると、つっとS君が自分の前に立った。
「や!」と私は驚いて言った。
「いま着いたですか?」
「うん。だが、Hからの馬車がまだこないのだって、今夜はおそくなるね。」
「そう。……じゃ、ここにお泊りなさい。」
 と言うようなことを話し合いながら、二人は二階にあがった。宿の娘はついて来て炬燵に火を入れてくれた。二人はそこで食事をしながら話した。
「僕はもうくる道で、幾度も泣きたくなった。」とS君が言った。
「僕は近路をしようと思ってくると、山はまだ雪が一ぱいでした。そこでたった一人郵便配達夫がくるのにあったが、そのほかには人一人通らなかった。雪の中に細い道が一条、人がね、踏んで行った跡があるっきりさ。僕はそこに立って、しみじみと泣きたくなった。母のことを思ったり、家のことを思ったりすると、胸がいっぱいになって来て、もうたまらなくなった。いっそ引き返そう。引き返して、母に詫びてこようかと思ったがね。それでもいろいろのことを思いながら、とうとうここまで来てしまった。」私は黙ってそれを聞いた。心にはその雪の中の細い道が浮んでいた。
 S君の涙は、私にはよく感じられた。S君が家を出る時に、曇った顔が涙になったのだ。しかし、私達はこう話し合いながら今はただ前途を――東京を――思わずにはいられなんだ。
 それで、二人はここでひとまず又別れ、S君は馬車に乗ってH町の方に行くこととなった。
 しばらくすると二人は互いに、
「ではH町で。」と言い合って、S君は二階を下り、馬車に乗った。そのあと、私はただ一人ぼんやりと炬燵に当りながら、いつくるか知れぬH町の馬車を待っていた。やがて、昨夜の睡眠不足と、今朝から馬車に揺られたのとで、つい眠り入ってしまった。



底本:「遠野へ」葉舟会
   1987(昭和62)年4月25日発行
入力:林 幸雄
校正:今井忠夫
2004年2月19日作成
青空文庫作成ファイル:
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