すると、
「前では賑かだな。」と私とならんでいた商人体《しょうにんてい》の男がつぶやいた。老人もハハハハと大きい口を開けて笑った。私もつい微笑せずにはいられなかった。
 その時に道が下りになったので、馬が急に駆け出した。車の中では一時に下をぐっと引っぱられたので、みんなうしろの方によろめいた。「やけにやるナ」と商人体の男が窓から馭者の方を見て言って置いて、振り向くと軽く笑った。その拍子に前の馬車は四五間も離れたので、その笑い声も聞こえなくなった。

 車が今にもこわれてしまいそうに揺れる。からだがただ揺れるままにして、車の中では誰れもものを言わぬ。で、しばらくすると商人体の男がふと老人に話しかけた。
 それは芝居の話だ。数日前まで盛岡で興行していた、某一座を遠野に連れてくることになった談判の模様らしい。
 私はその話に耳を貸しながら、次第々々うしろに残されて行く景色を眺めていた。道は山に入るかと思うと、山を離れて畑のあいだを行く。だが、どこもかも、白々と雪が積って凍りついたまま野も山も深く眠っている。やがて土沢に着いた。一度夢に見たことのあるような町だ。材木を組み合わせたような造りの勾配の急な屋根の家が、高低を乱してつづいている。町の色が黒い。
 馬車は町の中ほどでちょっと止まったばかりで、いそがしそうに出発した。前の馬車では娘の一人が馭者を呼んで菓子を買わせていた。

     二

 やがて、渓流に沿った道に出た。道がしだいに上りになって行く。山が迫ってくるので、あとの方が広い野のように見える。私は地図によってこの川が猿ヶ石川であることを知った。
 道がまがるに連れて、景色が変って行く。見ると先きの方に大きい山の中腹を一條の道が走っている。それがわれわれの行く道であろう。
 私はもう疲れた。からだの自由は利かず、目に見える自然に飽いた。ねむりたいと思ったけれど、眠ることもできない。ただじっとからだを据えたまま、心でいろいろのことを思い描く。私は四年ぶりで逢った従妹の顔を思い出していた。子供の時分にはほとんど一緒に育った女だったが、四年逢わずにいたうちに結婚して、子供を生んでいた。その従妹の家に泊っていたあいだに私はしばしば、従妹が自分にはどうしても解することができない女になったと思った。……その従妹の顔がふと胸に浮かぶ。
 着いたはじめには、二人で向い合っていると、何か話さずにはいられなかったが、ふっと二人とも言葉が切れて、黙って顔を見合った。その時に女の顔には妙に底にものの澱《よど》んでいるような表情が見えた。しかも強味のある表情だった。この娘の時には見たことのなかった表情を見ると、私の心は波立った。その女が心の底を開いてものを言わぬのが、不思議に思えてならなかった。
 その黙って、目を動かさずにいる女の顔が胸に浮かんだ。私の目には、ぼっと白っぽい色をした冬枯れの林が映っている。耳にはしだいに深くなった渓の底からくる水の音が聞こえている。
「スフィンクス!」
 私には、時によると自分のこの肉体より、ほかのものは、すべてその存在していることが不思議でならなく思われる。
 と、私の目の前にぬっと馬が顔を出したので、はっとして今まで思っていたことが消えてしまった。
 どこからか、荷を背負った馬が一匹、この馬車について来ていたのだった。

 空がしだいに暗くなった。日が暮れて行く頃のように、四辺《あたり》がしん[#「しん」に傍点]としている。馬車がいま絶壁の上を行くのだ。
 そのうちにちらちらと雪が降って来た。
「雪か!」といま迄、疲れたかしてものを言う人もなかった車の中で誰かが言った。
 雪がしだいに降りしきって来た。私達が急いで垂幕を下した狭い車の中が俄かに呼吸がつまるようだ。
「これじゃ、盛岡からの役者も明日はどうかな。」と老人の顔を見て、商人体の男が言った。
 私は折ふし、垂幕を上げて見た。あとからくる荷馬の顔に雪がしとしとと降りかかって、冷たそうに濡れていた。
 車の中では老人と商人体の男とのあいだにこんどくる歌舞伎芝居の噂がはじまった。盛岡での人気や、役者の技量などについてしきりと話し合っていたが、しまいに老人が「遠野のものは一体に芝居好きだもの……」と言った。この言葉が私には妙に心に止った。芝居好きな町……。
 雪がまた止んだ。私は急いで垂幕を上げた。冷たい風がすっとはいってくる。行手をすかして見ると、道が山の向《むこ》うへ廻っていて、前の馬車が見えなかった。
 私達の馬車も、その道を上り切ると、駆け出した。私は舌をあらしているのに懲《こり》もせず、煙草を取り出して火をつけた。そして路の傍《わ》きを見ると路に沿って山吹や木苺が叢生していた。月見草の種がはじけたまま枯れた莖もその中に絶えることもなく続いていた。

 道が渓流を離れたと思うと、小さい村をいくつか通った。チラチラと村の人に逢う。男も女も頭巾をかぶって、股引のようなものを穿いていた。
 珍らしそうに、その顔を見ながら行った。私はその中のどの顔も、いま私が訪ねて行く友人に似ているところがあると思われた。まるい輪廓のぼっとした、目と鼻の小さい、赭黒《あかぐろ》い顔。それを見てこの人達も私の友人のような封じられているような声でものを言うのだろうと思った。
 馬車を継ぎ代える、宮守と言う村に着こうとする時には、雪がまた前よりもひどく降り出した。
 宮守も土沢に似た町並をしていた。馬車が着くと雪の降る中に、村の人が幾人も立って迎えていた。ここで私達はいままでの馬車を降りて、遠野から来ている馬車に乗り継ぐのである。着いたのはかれこれ三時半過ぎていた。
 馬車は或る家の戸口で止った。車の中でからだを堅くして、身に沁むような寒さを忍んでいた人達は急いで降りて家の中にはいった。入り口に火がある、それをすぐ取りかこんだ。
 前の馬車の連中は上った、すぐ次の間でもう炬燵にはいっていた。私達がはいってくるのを見ると、例の赭顔《あからがお》の紋付がにやにや笑いかけた。
 私達は二階に通された。おなじ馬車に乗って来たのだと言うためか、私達の四人は一つ室で食事をした。
 私はからだが非常に疲れているので、食事にはただ卵をと注文した。すると、ほかの三人は不思議そうな顔をして私を見た。
 ここはもう花巻から七里ばかり離れている。この半日以上同じ馬車に乗っていて、私は誰ともろくに話さなかった。二|言《こと》三|言《こと》老人にものを聞いただけであった。どの人の顔も他人らしい表情をして私を見た。

     三

 雪の盛んに降る中に宮守《みやもり》を発った。これから遠野まで五里半ある。
 一緒に食事をしたので幾分か心が解け合ったのか、さあ出発と言う時には、互いに賑かに誘いあった。そとはもうすっかりと黄昏《たそが》れたようになっていた。私は馬車に乗って座を占めながら、寒さのほかに、広野の中で行き暮らしたような心細さが、ひしひしと心を襲った。ここからは私達の車の方に遠野の中学の生徒だと言う学生服を着た青年が一人乗った。
 こんどは私達の馬車が先きに立った。雪はしとしと降ってくる。宮守をはずれたところでそっと垂幕《たれまく》を上げて見ると、目に見える限りがぼっと白く、重い幕を垂れたようになっている。私は深く呼吸をして、遠野! 遠野もやはり薄黒い、板造りの尖った屋根がならんだ、陰鬱な町だろうか……と思った。東京にいては私はこの寒い国がこれほど、親しみにくいとは思ってはいなかった。
 雪の中を発って町端れまでのろりのろりくると、私の方の馭者は、何かくどくど言っていたが、やけのようにピシリ、ピシリと馬を打った。それを見ると、
「由爺《よしおじ》、どうした?」と、中から例の老人が声をかけた。
「どうしたんでもねい。おれの車に五人も乗れるか。荷物もあとのより倍ある。」と、このキッカケに調子がついたと見えて、急に馬車を止めて怒鳴り出した。
 老人はしきりとなだめていたが、由爺は猛《たけ》り立《た》てて誰の言うことも聞かない。あとの方の馭者も、雪の中だから次の宿まで行けと言ったけれど、
「フン次の宿まで、……鱒沢までか。」と言って馬車を立てたまま動こうともせぬ。それで、こんども最後に乗った、毛糸の襟巻をした男が降りて、後の馬車に乗り換えた。

 馬車は小山の腹を一廻りまわった。道がまた緩い上りになっている。山の峡を登ってうねる道を二台の車がつづいて行く。私はまた、うしろの口の窓に肱をかけて、垂幕の下から雪の中に暮れて行く山を見ていた。積っている上にも雪が積って行く。
 後の馬車の白馬が全身を濡らして、白い息を吹きながら歩いてくる。馬という奴は大きいがどこか可愛い獣だ。と思っていると、この馬車と、白馬との間にぬっとその由爺が身を入れた。
 肩幅の広いのに兵卒の着る外套を着て、腹のところを皮帯でしめている。頭巾で頭から頤をつつんで、その間から、黒い荒い鬚がムシャムシャ生えた頬を見せている。手には長い枝を折って鞭にしたのを持ち、足には藁靴(ツマゴ)を穿いて、雪の上をのしのしと歩いてくる。熊のような男だが、ギロッとした目に言われぬ愛敬がある。そして東京では豆腐屋の持っているような貝の形をしたブリキのラッパに緒をつけて、肩からさげていた。歩きながら幾度となく、
「ホーッ!」と言って、腹から出たような大きな声をして、肩の上から覗き込もうとする、白馬の顔をはらった。

 疲れと、寒さと、……迫まってくる黄昏の色との中に馬車の中ではものを言う人もない。私はただ雪でぼっと白らんでいながら、大きい山も、深い渓も一様にじっと暗の中に沈んで行く眼前の景色を驚ろいて見ていた。自然がつく緩い深い吐息を聞いた。この奥に不思議な世界が静かに千年の昔から横わっているようで。……すると、後の馬車で垂幕を上げた。ほの白い中に見えるのは例の赤い面の男と、それに対い合ってのぼせたような娘の顔とだった。と同時に、その中から二三人が声を合わせて笑った。男も女もはしゃぐ絶頂にのぼっているような顔をしていた。男は例のように対手なしににたにたしていた。
 寒さが身に沁みてくる。私は幕をおろして、肱でからだを支えて、煙草をくわえたが、目をつぶっていると何とも知れぬ深い暗い底に堕ちて行くようだ。
 道はまだのぼりだと見える。私はいくどもからだを動かしては、そっと恐ろしいものを覗うようにしてそとの景色を見た。そしてじっと心が一つに集るようになってくると、折々、後の馬車でドッと笑う声が聞こえる。女がうわずった、少し熱でも病んでいるような声をして笑う。私は苦笑した。と、馬車は俄かに駆け出した。薄暗くなって行く中を嵐と雪との中にまじって狂うように駆けて行く。由爺は馭者台の上に腰をかけて、ラッパを吹いた。長い息で、いつまでも吹く。……その響きがこの人気のない山の中に響きわたる。それで馬も人も勇んでいる。
 ぼっとりと闇になってしまった。車の中では互いに顔が見えなくなるのをわびしく思った。で、そろそろ話をはじめた。
「一体、遠野に何しにおいでです?」と老人が今朝からの疑問を、はじめて私に聞いた。
「ええ? 友人がいますのでね。遊びに来ました。」私は軽くこう言って笑った。
「遊びに?」老人は信じないらしい口振りでつぶやいた。
「大変おもしろい話のある土地だと聞いていましたので。」と言うと、
「ハア、遠野が?」不思議そうにしているので、私は単純に遊びに来たとだけ言っても、腑に落ちまいと思って遠野に古跡があるそうだがと聞いた。と、こういうところに折々そういう人がくると見えて、私をこの地方の歴史の研究者だと思ったらしく、その方の土地の人を三四人紹介してくれた。それから話のいとぐちがついて、商人体の男も暗の中でいろいろの話をはじめた。私は幾度もマッチをすって時間を見た。遠野へ着くのは早くも十時過ぎだろう。私は心ひそかに夜更けてからの寒さを恐れた。
 由爺のラッパはますます調子よく響く。と、そとに燈火が見えて、馬車が十五六軒ならんだ家の間を通った。
「上鱒沢《かみます
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