いると、何か話さずにはいられなかったが、ふっと二人とも言葉が切れて、黙って顔を見合った。その時に女の顔には妙に底にものの澱《よど》んでいるような表情が見えた。しかも強味のある表情だった。この娘の時には見たことのなかった表情を見ると、私の心は波立った。その女が心の底を開いてものを言わぬのが、不思議に思えてならなかった。
 その黙って、目を動かさずにいる女の顔が胸に浮かんだ。私の目には、ぼっと白っぽい色をした冬枯れの林が映っている。耳にはしだいに深くなった渓の底からくる水の音が聞こえている。
「スフィンクス!」
 私には、時によると自分のこの肉体より、ほかのものは、すべてその存在していることが不思議でならなく思われる。
 と、私の目の前にぬっと馬が顔を出したので、はっとして今まで思っていたことが消えてしまった。
 どこからか、荷を背負った馬が一匹、この馬車について来ていたのだった。

 空がしだいに暗くなった。日が暮れて行く頃のように、四辺《あたり》がしん[#「しん」に傍点]としている。馬車がいま絶壁の上を行くのだ。
 そのうちにちらちらと雪が降って来た。
「雪か!」といま迄、疲れたかしてものを言う人もなかった車の中で誰かが言った。
 雪がしだいに降りしきって来た。私達が急いで垂幕を下した狭い車の中が俄かに呼吸がつまるようだ。
「これじゃ、盛岡からの役者も明日はどうかな。」と老人の顔を見て、商人体の男が言った。
 私は折ふし、垂幕を上げて見た。あとからくる荷馬の顔に雪がしとしとと降りかかって、冷たそうに濡れていた。
 車の中では老人と商人体の男とのあいだにこんどくる歌舞伎芝居の噂がはじまった。盛岡での人気や、役者の技量などについてしきりと話し合っていたが、しまいに老人が「遠野のものは一体に芝居好きだもの……」と言った。この言葉が私には妙に心に止った。芝居好きな町……。
 雪がまた止んだ。私は急いで垂幕を上げた。冷たい風がすっとはいってくる。行手をすかして見ると、道が山の向《むこ》うへ廻っていて、前の馬車が見えなかった。
 私達の馬車も、その道を上り切ると、駆け出した。私は舌をあらしているのに懲《こり》もせず、煙草を取り出して火をつけた。そして路の傍《わ》きを見ると路に沿って山吹や木苺が叢生していた。月見草の種がはじけたまま枯れた莖もその中に絶えることもなく続いていた。

前へ 次へ
全16ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
水野 葉舟 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング