時刻に遅れたのです[#「私どもは滞潮の時刻に遅れたのです」に傍点]。そして[#「そして」に傍点]、ストロムの渦巻は荒れくるっている真っ最中なのです[#「ストロムの渦巻は荒れくるっている真っ最中なのです」に傍点]!
船というものは、丈夫にできていて、きちんと手入れがしてあり、積荷が重くなければ、追風に走っているときは、疾風のときの波でもかならず船の下をすべってゆくように思われるものです、――海に慣れない人には非常に不思議に思われることですが、――これは海の言葉では波に乗る[#「波に乗る」に傍点]と言っていることなのです。で、それまで私どもの船は非常にうまくうねり波に乗ってきたのですが、やがて恐ろしく大きな波がちょうど船尾張出部《カウンター》の下のところにぶつかって、船をぐうっと持ち上げました、――高く――高く――天にもとどかんばかりに。波というものがあんなに高く上がるものだということは、それまでは信じようとしたって信じられなかったでしょう。それから今度は下の方へ傾き、すべり、ずっと落ちるので、ちょうど夢のなかで高い山の頂上から落ちるときのように気持が悪く眩暈《めまい》がしました。しかし船が高く上がったときに、私はあたりをちらりと一目見渡しました、――その一目だけで十分でした。私は一瞬間で自分たちの正確な位置を見てとりました。モスケー・ストロムの渦巻は真正面の四分の一マイルばかりのところにあるのです、――が、あなたがいまご覧になった渦巻が水車をまわす流れと違っているくらい、毎日のモスケー・ストロムとはまるで違っているのです。もし私がどこにいるのか、そしてどうなるのか、ということを知らなかったら、その場所がどんなところかぜんぜんわからなかったことでしょう。ところが知っていたものですから、恐ろしさのために私は思わず眼《め》を閉じました。眼瞼《まぶた》が痙攣《けいれん》でも起したように、ぴったりとくっついたのです。
それから二分とたたないころに、急に波が鎮《しず》まったような気がして、一面に泡に包まれました。
船は左舷《さげん》へぐいとなかばまわり、それからその新たな方向へ電《いなずま》のようにつき進みました。同時に水の轟く音は、鋭い叫び声のような――ちょうど幾千という蒸気釜《じょうきがま》がその放水管から一時に蒸気を出したと思われるような――物音にまったく消されてしまいました。船はいま、渦巻のまわりにはいつもあるあの寄波《よせなみ》の帯のなかにいるのです。そして無論次の瞬間には深淵《しんえん》のなかへつきこまれるのだ、と私は考えました、――その深淵の下の方は、驚くべき速さで船が走っているのでぼんやりとしか見えませんでしたが。しかし船は少しも水のなかへ沈みそうではなく、気泡《きほう》のように波の上を掠《かす》り飛ぶように思われるのです。その右舷は渦巻に近く、左舷にはいま通ってきた大海原《おおうなばら》がもり上がっていました。それは私たちと水平線とのあいだに、巨大な、のたうちまわる壁のようにそびえ立っているのです。
奇妙なように思われるでしょうが、こうしていよいよ渦巻の顎《あご》に呑《の》まれかかりますと、渦巻にただ近づいているときよりもかえって気が落ちつくのを感じました。もう助かる望みがないと心を決めてしまったので、初め私の元気をすっかり失《な》くした、あの恐怖の念が大部分なくなったのです。絶望が神経を張り締めてくれたのでしょうかね。
空威張《からいば》りするように見えるかもしれません――が、まったくほんとうの話なんです、――私は、こうして死ぬのはなんというすばらしいことだろう、そして、神さまの御力《みちから》のこんな驚くべき示顕《じげん》のことを思うと、自分一個の生命《いのち》などという取るにも足らぬことを考えるのはなんというばかげたことだろう、と考えはじめました。この考えが心に浮んだとき、たしか恥ずかしさで顔を赧《あか》らめたと思います。しばらくたつと、渦巻そのものについての鋭い好奇心が強く心のなかに起ってきました。私は、自分の生命を犠牲にしようとも、その底を探ってみたいという願い[#「願い」に傍点]をはっきりと感じました。ただ私のいちばん大きな悲しみは、陸《おか》にいる古くからの仲間たちに、これから自分の見る神秘を話してやることができまい、ということでした。こういう考えは、こんな危急な境遇にある人間の心に起るものとしては、たしかに奇妙な考えです。――そしてその後よく考えることですが、船が淵のまわりをぐるぐるまわるので、私は少々頭が変になっていたのではなかろうかと思いますよ。
心の落着きを取りもどすようになった事情はもう一つありました。それは風のやんだことです。風は私どものいるところまで吹いて来ることができないのです、―
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