―というわけは、さっきご覧になったとおり、寄波《よせなみ》の帯は海面よりかなり低いので、その海面は今では高く黒い山の背のようになって私どもの上にそびえていたのですから。もしあなたが海でひどい疾風にお遭いになったことがないなら、あの風と飛沫《しぶき》とが一緒になってどんなに人の心をかき乱すものかということは、とてもご想像ができません。あれにやられると目が見えなくなり、耳も聞えず、首が締められるようになり、なにかしたり考えたりする力がまるでなくなるものです。しかし私どもはいまではもう、そのような苦しみをよほどまぬかれていました。――ちょうど牢獄《ろうごく》にいる死刑を宣告された重罪人が、判決のまだ定まらないあいだは禁じられていた多少の寛大な待遇を許される、といったようなものですね。
この寄波の帯を何回ほどまわったかということはわかりません。流れるというよりむしろ飛ぶように、だんだんに波の真ん中へより、それからまたその恐ろしい内側の縁のところへだんだん近づきながら、たぶん一時間も、ぐるぐると走りまわりました。このあいだじゅうずっと、私は決して環付螺釘《リング・ボールト》を放しませんでした。兄は艫《とも》の方にいて、船尾張出部の籠《かご》の下にしっかり結びつけてあった、小さな空《から》になった水樽《みずだる》につかまっていました。それは甲板にあるもので疾風が最初におそってきたとき海のなかへ吹きとばされなかったただ一つの物です。船が深淵の縁へ近づいてきたとき、兄はつかまっていたその樽から手を放し、環《リング》のほうへやってきて、恐怖のあまりに私の手を環《リング》からひき放そうとしました。その環《リング》は二人とも安全につかまっていられるくらい大きくはないのです。私は兄がこんなことをしようとするのを見たときほど悲しい思いをしたことはありません、――兄はそのとき正気を失っていたのだ――あまりの恐ろしさのため乱暴な狂人になっていたのだ、とは承知していましたが。しかし私はその場所を兄と争おうとは思いませんでした。私ども二人のどちらがつかまったところでなんの違いもないことを知っていましたので、私は兄に螺釘を持たせて、艫の樽の方へ行きました。そうするのはべつに大してむずかしいことではありませんでした。というのは船は非常にしっかりと、そして水平になったまま、ぐるぐる飛ぶようにまわっていて
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