命で薩摩に遊んで、諸藩の書生と付き合つたが、それが私《わし》の放浪生活の初めでもあつたらう。それから歸つて、人見寧《ひとみやすし》、梅澤敏《うめさわとし》などゝいふ人の取り立てた靜岡の淺間下《あさました》の集學所といふに入《はい》つた。其の集學所に居る人間は函館《はこだて》の五稜廓《ごりやうかく》の討ち洩らされといふ面々だ。總勢すぐツて百四五十人ばかり。毎日|軍《いくさ》ごツこ[#「ごツこ」に傍点]のやうな眞似ばかりして居たが、其《その》うち世は漸次《しだい》に文化に向つて、さういふ物騷《ぶつさう》な學校の立ち行かう筈もないので、其中《そのうち》に潰れて了つた。それから私《わし》は田舍の學校の教師になつた。
 初めて横濱毎日新聞《よこはまゝいにちしんぶん》に入《はい》つたのは、明治七年である。それが今日《こんにち》のそも/\で、それから十一年に東京日々新聞《とうきやうにち/\しんぶん》に來た。そして職業として文筆に親しんだ。そんな風だから、美學や哲學の規則立つての修養もなく、唯《ただ》昔から馬琴《ばきん》其他の、作物は多く讀んだが、詰りが明窓淨几の人で無くつて兵馬倥偬《へいばこうそう》に成長《ひとゝな》つた方のだから自分でも文士などゝ任じては居らぬし、世間も大かた然《さ》うだらう。それだから今日《こんにち》書く小説もやはり其通り、迚《とて》も戀愛や煩悶の青年諸氏に歡《よろこ》ばれるやうな品物を、書けもしなければ、又た書かうといふ野心も起らない。僕はやはり僕だけの僕で居る。
[#下げて、地より1字あきで](明治四十二年八月「文章世界」第四卷第十一號)



底本:「明治文學全集89巻 明治歴史文學集」筑摩書房
   1976(昭和51)年1月30日初版発行
初出:「文章世界」博文館
   1909(明治42)年8月第4巻第11号
入力:和井府清十郎
校正:松永正敏
2002年3月11日公開
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