に居た。どういふ譯で關八州の開墾をするかといふと、其時分幕府の基礎が大分《だいぶ》怪しくなつて來たので、木城氏や小栗氏の考へでは、遠からぬ中《うち》に江戸と京都と干戈|相見《あいま》みゆる時が來るであらう、愈々《いよ/\》然《さ》うなつたら仙臺《せんだい》、會津《あいづ》庄内《しようない》と東北の同盟を結んで、東海道は箱根、木曾街道は碓井《うすゐ》、この両口《りようぐち》を堅固に守つて、天下の形勢を見るより外はないといふ、つまり箱根から向う、碓井から先は、止《や》むを得ずんば打捨《うつち》やる覺悟であつたので、さてこそ關八州を開墾して兵食を足さうといふ考へが起つたのである。隨分泥棒を捕《つか》まへて繩を綯《な》ふと云ふやうな話であるが、然も其時は事實あれ程の急劇《きふげき》な變化、即ち三年後に江戸が東京になる程の變化が來やうとは思はなかつたので、悲しくても、まだ五年や十年の幕府の命脉はあるだらうと思つて居た。
そこで農事に委しい人を頼まうといふことになつて相馬《さうま》藩から二|宮《みや》金《きん》二|郎《らう》(尊徳《そんとく》翁の子《し》、其頃五十餘の大兵《だいへう》な人)を喚《
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