よ》び、伊豆の代官|江川《えがは》氏の手附《てづき》の河野鐵平《かうのてつへい》といふ人をも召《めし》た。其外にも開墾水理に明るい人が幾らもやつて來た。兎に角、まだ其頃までは幕府の勢力があつたので其御用となることは、さういふ人達に取つては非常な榮譽であつたのである。それでわざ/\遠いところから來て呉れた。
さて小栗|總州《そうしう》、木城安太郎を兩大將に、それに附屬する我々に至るまで――私《わたくし》はまだブランサンであつたが、一寸《ちよつ》とお目附方の息子といふので、參謀官の見習ひといふやうなところで居た。――で或る時は庄屋|名主《なぬし》五人組などいふ人物と引合ふ、或る時は神主や和尚さんとも談判する。十一月の廿七日かに大山《おほやま》の(相州)後《うし》ろの丹波山《たんばやま》の森へ入《はい》つた時などは雪中《せつちう》で野宿同樣な目をした事もある。隨分|酷《ひど》い目に遇ひながら、先づ相摸と武藏のあら方、それから上野《かうづけ》の一部を歩いて、慶應《けいおう》二年の暮おし詰めて江戸へ歸つた。其時に得た學問は、右の開墾や水理すべて地方《ぢかた》の事で、秣場《まつぢやう》を潰《つぶ》して畑地とする損益とか、河流の改修に就いての利害とか、その土地々々でいろ/\な問題に出遇つて、種々な研究をしつゝ歩いた。
當時私の考へでは、日本の農業位ゐ勝手我儘なものはない。水田は川から水を取つてかける。だから勾配は川より低いに極《きま》つて居る。然るに洪水の時は、其の出水を來《きた》させまいと云ふ。これ既に六づかしい註文である。洪水の時は、河流が眞直ぐでないから水ハケが惡いと言ひ、少し旱《ひで》りがつゞくと河筋にゆとりが無いから水落が早くていけないといふ實に手前勝手を極《き》めたもので、コンナ殆んど出來ない相談といふをぼやい[#「ぼやい」に傍点]て一年中泣いたり笑つたり、苦《くるし》んだりして居る。ソンな詰らぬ苦情を鳴らして居るよりも、私の考へでは陸穗《をかぼ》を作るがよい。陸穗を作るとそんな憂ひは一掃される、と斯ふいふのであつた。ところが、二宮といふ人も、それは面白いと私の流義でも右と同樣の説がある。決して足下《そくか》の鼻元思案《はなもとしあん》では無いと言つて大いに贊成して呉れた。
それから、も一つは、蕎麥《そば》と玉蜀黍《とうもろこし》を人間が常用食にして呉れると、一
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