ある。例へば、さる地位にある人は、其外から来る魂を体に附けなければ、其地位を保つことが出来ないのだ。此を一生に一度やるのが、二度となり、六度行うた時代もあつた様だ。
二度の魂祭り、即、暮と盆との二度の祭りに、子分・子方の者から、親方筋へ魂を奉る式「おめでたごと」と言ふ事が行はれたのは、此意味であつた。「おめでたう」と言ふ詞を唱へれば、自分の魂が、上の人の体に附加するといふ信仰である。正月には魂の象徴を餅にして、親方へ奉る。
朝覲行幸と言ふのは、天子が、親の形をとつておいでなさる上皇・皇太后の処へ、魂を上げに行かれた行事である。吾々の生活も、亦同様で、盆には、鯖《サバ》を、地方の山奥等では、塩鯖を※[#「敬/手」、第3水準1−84−92]げて親・親方の処へ行つた。何時の頃から魚の鯖になつたか訣らぬが、さば[#「さば」に傍線](産飯)と言ふ語《ことば》の聯想から、魚の鯖になつた事は事実である。此行事を「生き盆」「生きみたま」と言ふ。

     三

神道の進んで行くある時期に、魂の信仰が、神の信仰になつて行つた事がある。昔は、神ばかり居たのではない。精霊が居て、此が向上し、次第に位を授けられて、神になつたものと、霊魂なるもつと尊い神とがあつた。其形が、断篇的に、今日の風俗伝説に残つて居る。其時期に、古代には尠くとも、神が海なら海、河なら河を溯つて来て、其辺りの聖なる壇上に待ちかまへて居る処女の所へ来る。其時聖なる処女は機を織つて居るのが常であつたらしい。此処女が、棚機《タナバタ》つ女《メ》である。此形は、魂の信仰が、神の形に考へられたのである。
夏に神が来る。――夏の末、秋の初めに神が来ると考へたのは、日本神道の上でも新しいものである。と言うても、わが国家組織のまとまるか、まとまらない頃のものであらう。此時期に、吾々の民間に残つて居る、注意すべき事は、処女どもの、一所に集つて物忌みする事である。今日でも、地方々々に残つては居るが大抵は形式化して、やらねば何となく気が済まぬからと言ふ様な気分で、形式だけを行うて居る。此を或地方では、盆釜《ボンガマ》と言ふ。
地方には、其時だけ村の少女許り集つて、一个所に竈を築いて遊ぶ事が、今も残つて居る。此が実は、所謂まゝごと[#「まゝごと」に傍線]の初めである。日本人は、隔離して生活する時には、別な竈を作つて、そこで飯を焚くのが常であ
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