祭《サヘノカミマツリ》・厄落《ヤクオト》しなどは、何の日に行うてもよい訣である。
竹を裂いて屋根へ上げる風俗は、自然木の枝を以て、髯籠の髯を模したことを暗示してゐる。先に述べた葬式の花籠は招魂の意のもので、同時にそれが魔除けの用意をも込めてゐるものである。神の依代は一転化すれば、神の在処を示す事になる。邪神は其に怖ぢて、寄つて来ないのである。死体をねらふものは沢山ある。虚空から舞ひ下つて掴み去る火車《クワシヤ》・地上に在つて坏土《ハウド》を発く狼を脅す髯籠の用は、日の形代《カタシロ》たる威力を借るといふ信仰に根ざしてゐるのである。
花籠《ハナカゴ》が一転して、髯が誇張せられた上に、目籠が忘れられると花傘となる。
五 田楽と盆踊りと
出雲の国神門郡須佐神社では、八月十五日に切明《キリアケ》の神事といふ事を行ふ。其時には長い竿の先に、裂いた竹を放射して、其に御祖師花風の紙花をつけたものを氏子七郷から一つ宛出すさうであるが、其儀式は、竿持ちが中に立つて、花笠を被つた踊り手が其周囲を廻るさうである。此は岩戸神楽と同様、髯籠《ヒゲコ》だけでは不安心だといふので、神を誘《オビ》く為に柱を廻つて踊つて見せるので、諾冉二尊の天の御柱を廻られた話も、或は茲に意味があるのであらう。摂津豊能郡の多田の祭礼にも同様な事が行はれると聞いてゐる。
長い竿を地に掘り据ゑないで、人が支へるといふのは、神座の移動を便ならしめる為で、神が直ちに神社に降りない証拠である。切明《キリアケ》の神事は、旧幕時代には、盆踊りと混同して、七月の十四日に神前で行はれて、名さへ念仏踊りと言はれてゐた。彼の出雲のお国が四条磧《シデウカハラ》で興行した念仏踊りも、或は単に念仏を唱へ、数珠を頸に懸けてゐたからだとばかりは定められまい。それには尚、かの難解な住吉踊りを中に立てゝ見る必要がある。
住吉踊りは、恐らく祈年祭或は御田植神事《オンダジンジ》に出たものと思はれるが、江戸へは春駒《ハルコマ》・鳥追《トリオ》ひ同様、正月に来たらしい。今日でも、小さな析竹《サキタケ》やら、柳の枝を、田植ゑの時に田に挿す処があることやら、田の中央に竿を立てゝ、四方に万国旗を飾る時の様に縄を引いて、此に小さな紙しで[#「紙しで」に傍線]を沢山とりつけて置く処のある事などを考へ合せると、住吉踊りは恐らく、御田植神事に立てた花竿が傘と
前へ
次へ
全10ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング