わ》びがかなって大阪から戻って来たのも、やはり二十九年であった。この間に福助はうんと延び、ずうっと後輩の尾上栄三郎(後の梅幸)も相当の役をする様になっていた。
東京に帰って来てした芝居が我々には面白いが、「続々歌舞伎年代記」を見ると、この頃は壮士芝居が相当に纏《まとま》って来て、山口定雄が「本朝廿四孝」をしていた。源之助はここで腰元濡衣、橋本屋の白糸をした。杉贋阿弥の劇評は元来余り讃《ほ》めぬ方であるが、橋本屋の白糸は絶技と讃《ほめたた》えている。源之助のような出たとこ勝負の役者には時によって、つぼ[#「つぼ」に傍点]の外れる所があるが、生世話物《きぜわもの》だと成功する率が多い。生活が即舞台となることが出来るから。そしてこの評判が源之助の芸格を狭める結果になった。遥かの後昭和十二年十一月明治座に久し振りで鈴木|主水《もんど》の芝居が出た。主水が宗十郎、白糸が時蔵であった。源之助は晩年今にも死ぬか死ぬかと思っていたので得意芸を演《や》らせたらばいいにと思ったが、興行者の見徳とでも言うかどうも変なもので、実現はしなかった。五人廻しというものを鈴木主水の劇の中に取り込んである。源之助は通人
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