政治郎時代の梅玉が明治三十年に東京で八重垣姫をした頃の美しさなどは、素晴しいものだった。一体に東京の芝居に出入りする連衆は大阪芝居を非常に軽蔑《けいべつ》していて、大阪というと何でもけなしつけるのだが、その自信の強い東京の見物も、是だけは文句なしに参ったのである。尤《もっとも》、最近の娘形は、薹《とう》が立つ以上にすさまじいものになってしまったけれども。
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これほど美しい女形は大阪にはない。もと成太郎といって、沢村源之助の四十年代の芝居によく女形をした中村魁車になると、素顔はそれほどでないが、舞台顔は今でもよい。併しこれ以外に近代の大阪に美しい女形はない。この梅玉・魁車、更にさかのぼって雀右衛門あたり以上に古くなると美しい女形というものはまるで見当らない。私の見た時代は女形|凋落《ちょうらく》時代で、大概みんな化け猫女形ばかりであった。又|歌舞妓《かぶき》芝居には、見物にとって舞台に出て来る役者は、一種の記号のようなもので、美しい顔をしていようが汚い顔していようが、ともかく舞台で役者が動いていればよいので、あとは見物がめいめい勝手に幻想のようなもので、いろいろ
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