寄る荒巌《アリソ》を しきたへの枕とまきて、寝《ナ》せる君かも(二二二、柿本人麻呂)
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沖の方の波が来寄せる所の、岸の荒い岩石を、枕の如く枕して、寝ていらつしやるあなたよ。
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死者の霊の荒びを和める為に、慰撫した歌ですが、まう一つ、大伴坂上郎女――家持の叔母――の作つた歌とつき合せて考へてみると、我々が既に忘却し去つた、ある事が考へられます。

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玉主《タマヌシ》に玉はさづけて、かつ/″\も 枕と我は、いざ二人ねむ(六五二)
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これは、自分の娘を嫁にやつた母の気持ちを詠んでゐるのです。「かつ/″\」といふ言葉が、二人寝るといふ条件を、完全には具備してゐない事を示してゐるのです。つまり、枕と自分とだけでは、やつと形だけ二人寝るといふ事になるので、もつと何か特別な条件がつかないと、完全な二人寝ではないのです。たま[#「たま」に傍点]の本来の持主にたま[#「たま」に傍点]を授けた、保管せらるべき所にかへつた、といふのが「玉主にたまは授けて」といふ事なのですが、この意味が、はつきり訣れば、「かつ/″\も」が解けるのです。これは唯、今まで二人ねて居て淋しくは思はなかつたが、これからは、それが出来ないから、枕と二人寝しようよと言ふ事だけでは訣らないと思ひます。つまり、枕べに玉を置いておくのは、そこに、その人の魂があるといふ事なのです。其で完全な一人なので、そこへ自分を合せて二人となるのです。旅行とか、外出し又、他の場合、死者の床――の時には玉を枕べに添へて置く。さうすると、「たまどこ」といふ言葉で表される条件が整つて来ます。「たま床の外に向きけり。妹がこ枕」と言ふのは、もう魂がなくなつてゐる事を言つてゐるのです。この場合は、嫁にやつた娘と私と、二人分を表すものはないが、これくらゐで二人寝てゐるのだと条件不足だが、まあ、さう思うて寝ようと言ふ意味です。だから、枕辺に玉を置くまじつく[#「まじつく」に傍点]があつた事を、考へに入れて解かなければ、此等の歌は訣らないのです。
人麻呂の歌も、本道なら、枕に玉を置かなければならないのに、岩の枕だけだといふので、昔の人には、これだけで霊魂《タマ》がなくなつて死んでゐる事が訣つたのです。

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荒波により来る玉を枕に置き、吾こゝなりと、誰か告げなむ(二二六、丹比真人某)
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これは、人麻呂の思ひに擬して作つたものと伝へてゐます。枕べに玉をおかずに寝てゐるのでは、旅の死者と言ふ事になるから、「玉を枕におき」といふ風に、条件を具備してゐるやうに言つたのです。具備はしてゐるが、其は海辺の荒床だ。其処で行き仆れて寝てゐることを、誰が彼女に告げたらうか、といふのです。
私らの、そこで行きづまる事は、枕に這入つてゐる霊魂と、人間が生きてゐる上に持つてゐなければならぬ霊魂とは、同じものかどうか、といふ事です。此までは、別のものと考へてゐました。それは、神事を行ふ時、霊的な枕をすると、たま[#「たま」に傍点]が体に這入つて来て、神秘な力を発揮して来ます。だから、その神事の時のたま[#「たま」に傍点]と、平生、身体にあるたま[#「たま」に傍点]とは別だと考へてゐたのです。併し、枕の[#「枕の」に傍点]たまと人間の霊魂とは、深い関係にあるらしい事が、前の歌々を見ると考へられて来ます。さうなると、この点はまだ、私にも疑問として残ることになるのです。
とにかく、かういふ風に、神の霊・人の霊・旅行中の霊魂と、霊魂を考へて行けば、いろんな古代の信仰問題が訣つて来ると思ひます。万葉集の歌にも、従来の研究では、半分位しか意味の訣らないものも沢山ありましたが、さうした点も追つて、十分理会が出来る様になるでせう。
既に皆さんが正しいものと考へてゐる知識も、今は改める必要のある事、そして今迄、問題にならなかつた事を、新しく問題にとりあげる必要があるといふ事を、今日はお話ししたのです。



底本:「日本の名随筆62 万葉(二)」作品社
   1987(昭和62)年12月25日第1刷発行
   1996(平成8)年10月30日第8刷発行
底本の親本:「折口信夫全集 第九巻」中央公論社
   1955(昭和30)年12月発行
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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