、これから伊勢參宮する同宿の遊女二人の事を書いてゐる。ところが、其書き方を見ると、市振の關の事を立ち戻つて書いてゐるのか、先へ行つて泊つた處か、どうでもとれるやうに書いてある。文章から見ると、市振での出來事に就て書いてゐると見るのが當り前だ。隨行日記で見ると、翌日市振を發つて、越中の國、滑川へ泊つてゐる。だからこゝの處は市振の出來事だと見ていゝ。ところがそこでは、一間隔てた座敷に、若い女が二人話してゐる。年寄つた伴の男の聲も聞える。こゝまで送つて來た此男が、明日は新潟にたつかするので、遊女たちが手紙を書いて、これに言傳てなどしてゐるところだ。
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しらなみのよする汀に身をはふらかし、あまの子の世をあさましう下りて、さだめなき契、日々の業因、いかにつたなしと、物云を聞々寢入て、――
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いかにも小説的な場面を、海岸の宿屋で、海邊の述懷らしいことばで佗び合はしめてゐる。處で翌朝になつて、芭蕉の前で言ふことには、女の旅で頼りないから、見え隱れに後について行きたい、あなたは出家の御方の樣に見えるから佛の惠みに與らしてくれ、と言つたが、自分等は旅の所々で、逗留するところが澤山あるから、お前さん達も、同じ方角に行く者について、自由に行つたらよからう、神の護りできつと無事に著くに違ひない、とそれだけ語を殘して出たが、「哀さしばらくやまざりけらし」と書いてゐる。で、
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一家に遊女もねたり萩と月
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曾良にかたれば、書とゞめ侍る。
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と、名高い句をいかにもほんたうらしく書いてゐる。ところが、曾良の隨行日記にはそのやうな事は一行も書いてゐない。これは、曾良の書き落したものとするよりも、道の記らしいあはれを持たせるために、虚構の上に虚構を重ねたと考へていゝのだ。後の人は、芭蕉の一代中でも、あはれ深い旅路の末、最わびしい經歴を讀んで、身に沁みて感じる。蝶夢の「繪詞傳」などにも、この市振の一夜を繪に畫いて、芭蕉の前で遊女達が泣いてゐるところなど畫いたりしてゐる。
つまり、芭蕉の市振に於ける實際生活は、曾良の日記に書いたところに留つてゐるのだが、芭蕉の空想は其から出發して、虚構と言ふべき文學を作つた訣だ。正直な我々は、虚實竝行の兩日記を見ると、芭蕉の嘘つきなのに開いた口が塞がらぬ氣がするが、もつと重大な虚構が、芭蕉の傳記の一部に割り込んでゐるかも知れない。すると、其は文學と違ふのだから、芭蕉の虚構は、一種別なもらる[#「もらる」に傍線]の問題に觸れて來る。しかし、我々には其場合にも、芭蕉の文學が實生活にまで延長せられた名殘りを見ればよい。そこに、文學研究者に對して問題が、與へられてゐることになるのだ。
この句を見ても、芭蕉がいかに物寂しい日記に、色氣を添へようとしてゐるか訣る。芭蕉が此句を作つた文因ともいふべきものは、月は尾花とねたと言ふ、尾花は月と寢ぬといふ、小唄の古い型が、頭に働きかけてゐるので、萩と月の光りとを交錯させる表現に、遊女の情趣を含めたものが示されてゐるのだ。だからきつと、此句を作る過程には、一つ家に遊女とねたり、といふ形もとつてゐたらう。たゞさうすると、同じ一つ家に遊女と自分が、別々に宿つた一夜、といふ風には受け取らぬ人も出て來るので、此形に直したのだと取つてもいゝ。さういふところまで、芭蕉は事實を文學のために犧牲にしてゐる。だから、其處に到達するまでの道筋として、會はなかつた旅の女を出しさうな點も、不思議ではない。これで芭蕉の偶像を破壞してしまふ人もあるだらうが、そんな人は、氣の毒な鑑賞者と言はねばならぬ。だが、其事實と虚構との關係の意義を思ふと、さう言ふ失望を感じると言ふことに、我々の文學的經驗の、練熟せられてないといふ感じもする。謂はゞ、剽輕な日記が飛び出して來たために、芭蕉の文學の其部分が破れて、虚構があらたな勢を以て、次の調和を求めて、心にひろがつて來るわけだ。

今日短歌の上で、文學としては虚構が許さるべきものだ、虚構を用ゐる意義のあるといふことは、誰でも認めてゐる筈で、たゞ其議論の立て方、論理の運び方が、問題にせられてゐるのだと言つてよい。だから、我々が其問題の中に入りこんで行つても、別に變つた、新しい事の言へる訣がない。たゞ近年、芭蕉から受けた衝動が非常であつて、繪空事・歌虚言に馴れた我々も、反省してみなくてはならなかつた經驗を新しくした。此經驗を思ひ返しながら、ある方角を別に考へて行くことだ。
我々の生活は、其生活を完成したものと信じて、其を文學の素材として用ゐるのである。一つの完全なものと想像してかゝつてゐる訣だ。ところが、表現の段になると、素材そのものが、不完全なものだといふ感じを度々うける。つまり、我々は度
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