る。
         鬼と天狗と
先、田遊びには、鬼が出る。時には、此が同時に天狗である事もある。昔は、この二つは同じものだつたので、鬼なり天狗なりが出て来て、田遊びを助成するしぐさがあつたのだ。ところが、民間の習はしの情ないことには、鬼・天狗と言ふ名に囚はれて、却つて此を邪魔する奴だ、と解釈する様になつた為に、今では、此らのものを降伏させる儀式が生れて居る。勿論、さうなつて行つたには、神と精霊との争ひ、精霊の降伏といふ、古い事実が印象されて居る、と見られる点もある。其でも、地方によつては、鬼と呼びながら、此を大切にしてゐるところもある。結局は、鬼も天狗も、大切なものだつたので、尉と姥と、同じ形のものだつた。だから、田楽では、天狗が大切なものになつて居る。此から、高時の天狗舞ひの様な、修羅物が出来て来たのである。
         獅子と駒と
次に、獅子と駒とが出る。此二者も、元は農村を護るものであつたのだが、今では両者とも、悪いもの・妨げをするものと解釈されて、降伏させる形になつて居るのが多い。
此は、呉《クレ》楽にまで溯つて見なければならぬと思ふ。呉楽が段々変じて、田楽に採り入れられ、大神楽にもなつたので、今では、悪魔を退散させるものゝ様でもあり、悪魔そのものでもある様な、訣の訣らないものになつてしまうてゐるが、此の出て来るにも、種々な意味があり、多くの変化があるが、其種の一つは、鹿である。古くは、鹿・猪、共にしゝ[#「しゝ」に傍線]と言うた。肉《シシ》の供給者の意である。さうして、鹿は、農村を荒す動物の代表物と見られて居たので、随つて、悪霊の代表とも見られ、此を謝らして、農作の保証をさせる所作が、古くからあつた様だ。
日本の芸能の上では、此が面白かつたと見えて、いろ/\なものに、其が採り入れられて居る。鹿と獅子との合同した跡は、極めてはつきりして居る。決して突然に、あんなものが出来た訣ではない。勿論、此鹿の謝罪誓約が、獅子舞ひの全部ではない。鹿の降伏する所作を持つた舞ひの上に、獅子舞ひが入つて来たとも見られる。とにかく、古く日本の芸能に、鹿の謝る所作を持つたものゝあつた事だけは、万葉集を見ても訣る。万葉集には、鹿の謝る歌が、長歌に一首、旋頭歌に一首と二首も、それがある。
駒は、獅子に対する狛《コマ》犬である。今は神社にだけ残つたが、元は、貴族の間に使はれて居た。其が今日では、狛を駒と解して、馬の形に変つてしまつたから、訣が訣らなくなつて了うた。さうして、獅子と共に、降伏するのか、悪魔払ひなのか、訣らぬものになつて了うたのである。
         牛の代かき
次に牛が出る。此は、田の神――水の神と同じもの――の犠《ニヘ》なのだ。或は、田の神の為に働くものであつた。後には、実際に耕作の助けをしたので、行事にも、代かきに出る事になつてゐる。古くは、田の神の犠として大切がられたので、牛の肉を喰べた為に稲虫が発生した、などゝ言ふ附会説が出来たのも、やはり此が、神の食物と考へられて居た、印象から出て居るのだと思はれる。
         神と精霊との問答
田遊びの行事は、此らのものが、掛け合ひの形をとつて行はれるのが普通であるが、此掛け合ひの代表的なものと見られ、特別なものと見られるのは、尉と姥の掛け合ひである。ところによつては、媼が出ないで、翁だけが、二人或は三人出るところもある。此は、一人は田主《タアルジ》――田の精霊――で、もう一人は、此精霊を降伏させ、田の物成りの保証をさせに来る、遠来神である。能楽では、此二人が、白尉・黒尉で表され、外に千歳が出る。能楽の千歳は、若衆型で行はれる。
此神と精霊との間に、神授・誓約の問答のあるのが、古い姿であつたと思ふが、今は、いろ/\に変つて居る。しかし結局、田の害物が除かれて、物成りのよくなる約束が、出来る事になるのである。
         群行・練道
更に此行事で、注意しなければならぬ事の一つは、此をやる役者が、其附属して居る家は勿論、寺や社へ、其土地を褒め、田畑を褒めに、寺や社へ練り込む事である。田楽では、此が中門口となつて残つたのだが、此は、日本の宗教・芸術の発達の上では、見逃す事の出来ない、大きなものゝ一つである。
此は、服従の位置にあるものゝ、大きな為事になつて居た。此服従者は、寺の場合には、羅刹神――仏教擁護の神――と言はれて居る。大きな神社には、必附随して居るので、麻陀羅神などゝも言うた。
赤塚の諏訪の社は、相当に古い社だと思ふ。此所では、此服従者が、十羅刹女神と謂はれて居る。だから、世間からは、こゝの田遊びを、十羅刹女神の春祭りだ、と考へられて居た様だ。恐らく此行事が、十羅刹女神の祠から、練り出す形で行はれたのだらうと思ふ。勿論、今は忘れられてゐる。だが其でも、此祠の前で、天狗の吠える式があるらしい。日本の神道では、神の叱りと言ふものが、大切な事になつて居た。古い信仰の印象が、さうした形で残つたのだと思ふ。
田遊びは、初春の行事であつたのが、元の形である。其が、五月に繰り返され、更に七月にも行はれる様になつて、愈盛んになつた。五月田植ゑの時に移し行はれたのは、如何にも、実感に適するからであつた。七月に行はれる様になつたのは、稲の穂の出る時であり、また、不安の伴ふ時期であつたからだと思ふ。要するに初春の行事だつた、春田打ちの延長と見られるのである。



底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
底本の親本:「『古代研究』第一部 民俗学篇第二」大岡山書店
   1930(昭和5)年6月20日
初出:「民俗芸術 第二巻第九号」
   1929(昭和4)年9月
※底本の題名の下に書かれている「昭和四年六月二十九日、郷土研究会講演筆記。昭和四年九月「民俗芸術」第二巻第九号」はファイル末の「初出」欄、末尾注記欄に移しました。
※底本では「訓点送り仮名」と注記されている文字は本文中に小書き右寄せになっています。
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2007年5月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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