序的に見れば、人名の語尾・器用の語尾などの「子」は、逆語序的な言ひ方と考へることも出来る。「こ何」と言ふ風に観じてもわかる。我々は今も、「小さい所の」「大きい方でない方の」と言つた理会の外に、愛称として感じることの出来る余地は、心に持つてゐるのである。

     一 「ぐわあ」と「がま」と

首里の巫女「大阿武志良礼《ウフアムシラレ》」は代々|久高《クタカ》氏の女性を出す、極めて古い為来《シキタ》りであつた。中古と伝へる時代に、一門にふさはしい人がなく、臨時に「大あむしられ」を見立てたが、一方旧慣を守つて、七歳の久高氏の女を「首里のろがま」と称へ、祭に当つて、「のろがま」を「大あむしられ」の先に立てた、と琉球国諸事由来記その他に伝へてゐる。小さかつた人を立てたのが恒例となつて、「のろがま」といつた訣である。小女神主と言ふやうな意味においていふのが、のろがま――「巫小」である。がま[#「がま」に傍線]は後代普通にぐわあ[#「ぐわあ」に傍線](小)となつた語である。
日琉共に、愛玩の意を持つた子・ぐわあ[#「ぐわあ」に傍線]がある場合には、「何子」「何ぐわあ」と言つた形で、正語序の「小何」「子何」に当る意義を示す。
琉球の方で言ふと、犬ぐわあ(犬小)が「小犬」であり、橋小《ハシグワア》が「小橋」であることを通例としてゐる。東北方言における「橋こ」「犬こ」である。我々は今「橋子」「犬子」といふ風に感じるが、小犬・小橋でもない替り、橋子・犬子でもなく、鍾愛の橋、可憐の犬なることを示す、心理的表現なのである。形は同じであつて、彼と是とでは、両方に別れてゐる。だが、沖縄では必しも、今も昔も、両方に渉つて用ゐられてゐる例が、ないとは言へない。寧ろ一つの偏向として、差等観を示す「何小」が次第に殖えて来たまでゞあらう。一つの心理を元としてゐるものなのだから、中間の観念が次第に自由になつて、両方に跨つて使はれるやうになつたものと思はれる。
併し何としても、形は純乎たる逆語序である。おなじ小観念を示すものに、小《グ》(<小《コ》)がある。鳥小堀・魚小堀など言ふ地名がある。首里の「とんぢよもい」、那覇東村の旧地「うをぐぶい」など発音する地が其だ。小は、く・ぐ(<こ・ご)であるから、ぐわあ[#「ぐわあ」に傍線]と音韻上関係がありさうに見えるが、此は、別の語である。其に語序も、濠・渠を意味す
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