象は、「身」と「形《カタ》」とが聯関してゐるのだが、其がそつくり、ひつくり返つてゐるのではない。正語序の時代になつて、譬へば「みかた」「みのかた」と言ひかへる慣しが出来てゐたとしても、「したうづ」「したすだれ」のやうには、裏返しにはなつて居まい。抑、此場合は、逆序時代に出来た熟語を、正序時代の語意識に置いて考へることになると言ふ不自然がある。
さうした正逆いづれか一つに止ると言ふことは、結局正語序だけがあると言ふことになるので、かたみ[#「かたみ」に傍線]の如きは、時代の古いものなる為に、さうした判断をするわけである。
明らかに時代によつて、語序をふりかへてゐたものゝ中では、「とり見る」「みとる」などが、著しいものだらう。みる[#「みる」に傍線]は「世話をする」「ねんごろにとりあつかふ」など言ふ内容を持つてゐて、うしろみる[#「うしろみる」は太字](後見る)・たちみる[#「・たちみる」は太字](立ち見る)、中へ入つて世話をやく=仲裁すると言つた用語例の語=とる[#「とる」は太字]は「手づからする」「扱ふ」、さう謂つた意義に使はれることが多い。この「とる」と「みる」との二つの観念の間に加つて来、又|自《オノヅカ》ら生じるものがあつて、唯とる[#「とる」に傍線]・みる[#「みる」に傍線]との機械的な接合ではない。古くはとりみる[#「とりみる」に傍線]であつたのが、何時か、「みとる」に移つてゐる。「みとる」は看護すると言ふ風に飜訳せられてゐるが、直接にめんどうをみ[#「直接にめんどうをみ」に傍線]・世話する[#「世話する」に傍線]と言つた所から、介抱する・看護するといふ風になつて来たものなのだ。とりみる[#「とりみる」に傍線]もおなじであるが、母がとりみる・妻がとりみるなど言つて、看護よりも手づから、髪や、手や身など持つて、撫で育むやうな用例だから、今少し、個々の表現のしかたで、自由な意味に動いて行くことは考へられる。大体において、とりみる[#「とりみる」に傍線]・みとる[#「みとる」に傍線]には語序時期が示されてゐる。
其と共に、これなどは語序転換の根本条件なる、言語部族の変化と言ふことに関係は薄いかも知れぬ。語序の変化を経歴した語族の中で、単一な時代的変化が起つて来る。一部族の中に、語序変化の起るといふことの事実を見せてゐる例だとすることも出来よう。併しこれなどは、語
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