げてと言ふ語で表したのらしい。かう言ふ風に、出来るだけの奉仕をするからは、客人たちも、「存分に無条件に、志をおうけ下されて」の意味を、「直《アタヒ》以て易《カ》はず」で示したのだ。代物で交易すると言ふ意識なくといふことである。餌我の市は、南河内石川のほとりの恵我の市である。「うまさけ」は枕詞、前段の酒の聯想から来たまでである。こゝでは酒の事は言はないで、たゞ恵我市で交易する様な気にはならず、「十分気をゆるして、無条件でお受け下さい」といふのである。「たなそこやらゝに云々」は、饗宴の楽しみを享受する様。志を賓客の納受した表出を見たいと望むのである。とこよたち[#「とこよたち」に傍点]は、長寿者たちの義で、第一義の常世《トコヨ》の国は、富と、命と、恋の浄土とせられた古代の理想国である。其処に住んで、時あつて、この土へ来る人あるを想像して、とこよ[#「とこよ」に傍点]と言つたのである。古来饗宴の賓客を、神聖なものとして、常世の国からの来訪者と考へて来たのが、わが国の民俗である。
此寿詞について、尚一つ言はねばならぬことが残つた。其は、文中に在る二つの地名である。出雲は、恐らく本国出雲ではあるまい。出雲人の移動して住みついた地をさすものと思はれる。此処の恵我市と相叶ふ出雲は、恵賀に近い土師郷附近である。此は出雲宿禰から分れた土師宿禰の根拠地である。此外にも、姓氏録には、河内の出雲宿禰姓が記録せられてゐる。土師・恵我は同郡、隣郡古市郡には、又恵我古市がある。何にしても此は、新室の寿詞の、河内に行はれてゐたものゝ形である。さうして、出雲恵我を言うた理由は、恐らく偶然ではなからう。出雲人の中、建築に交渉の多い者のあつたことは、すさのを[#「すさのを」に傍線]の命の出雲八重垣の歌、大国主のたぎしの小浜の火|燧《キ》りの呪詞、播磨風土記の出雲墓屋《イヅモハカヤ》の条、引いては出雲人で河内に移住し、土師氏の祖先となつた野見宿禰の陵墓に関する伝承等が示してゐる。墓屋や陵墓の築造は、昔は、建築事業になつてゐた。出雲建築が、古代文化の上に著れて居た時代があるのである。出雲人の建築法と、新室営造との関係はわかつても、之が両天子に持つた交渉は、知ることが出来ぬ。たゞ今の間は、河内人の間に行はれてゐた新室の寿詞が、何かの機会に、久米若子の伝承にとり入れられたものと見ておく外はないと思ふ。
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