はじめて表現せられ、神之を神子に授けて、其威力を以て、地上に詔命を及さうとしたものと考へるやうになつたのである。即、「天《アマ》つ詔座《ノリト》」と名づける神事の一様式を、天上にもあることを想像して居たのである。さう言ふのりとごと[#「のりとごと」に傍点]の性質上、荘厳な讃辞を加へるのが常である。天上の詔座における詞章にして――其は最壮大な詔座の詞章と云ふ表現を持つた「あまつのりとの―ふとのりとごと」(天津詔刀乃太詔刀言)なる讃《ホ》め語が行はれた訣である。だから「のりと」を原形と信じて、「のりとごと」をその重言とする考へは、皆「のりと」のと[#「と」に傍点]に言《コト》の意義を推測してゐるので、当つてはゐないのである。
吾々の今考へねばならぬことは、その「天つのりと」が後世まで伝誦せられた、どの詞章に当つてゐるかと言ふことである。其と同時に、天つのりと[#「天つのりと」に傍点]は姑く措いて、現存或は、亡失したのりと[#「のりと」に傍点]の中、大体どう言ふ種類のものが、古風のものか、と言ふ問題がある。
其に先《さきだ》つて言はねばならぬことは、「祝詞」又は略して「祝」の字面を以て、のりと[#「のりと」に傍点]に宛てるのは、大体平安朝以後の慣例と見てよく、さうして、さう言ふ字面が用ゐられ、其用例から認容せられたのりと[#「のりと」に傍点]の内容は、やはり延喜式の祝詞から、百年前以往には溯れないだらうと言ふことである。平安朝の祝詞の様式は、凡延喜式のものと大差のなかつた筈の貞観儀式、其よりも溯つて、嵯峨天皇時代の弘仁式――此にも祝詞式はあつたと思はれる――から考へて見ると、やはり此時代にも既に、平安祝詞らしいものが、制定せられてゐたことを思うてよいやうだ。さうならば、其以前はどうであらうと言ふことになる。溯るに従うて、次第に所謂祝詞風の色彩は薄く、之に替る古風な姿態が、現れて来るのではないかと考へる。
其でものりと[#「のりと」に傍点]と言ふ名称は、更に溯ることの出来るものだから、其時代は固より、其よりも寧、前からも用ゐられてゐたことは、確かであるが、様式も、内容も、性質も違つて居たことも、まづ考へてかゝらねばならぬ。
第一に、所謂神事ばかりに用ゐる平安朝式のよりは、其用途は、もつと範囲の広かつたこと(一)。恐らく神事の限界が、宮廷伝来の儀式すべてに通じてゐた古代だから
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