もある。其故、書かれざる詞章として、長い年代を経たに違ひない。其が種類、用途によつては、其詞章の人目に触れることを避ける必要のないものが、相当にある。宮廷や、官庁に、公式の儀式に用ゐられる詞章の如きは、常に人の耳の多い事を予期して、唱へられてゐた。だから、宮や官の「大事」に当つて、用ゐられるものは、秘すべき性質のものではない。此種のものは、相当早く筆録せられて居たに違ひない。大分遅れるが、延喜式詞章の如きは、すべて公然発表をくり返した詞章である。だから呪詞はまづ、神秘観を失つたもの、公式なものから、固定の機運が到ることになつた。中には、絶対に筆録の拒まれたものがあつて、此が天津祝詞の名を以て伝へられたのであらう。
此まで祝詞の類を分類するのに、宣下式のものと、奏上式のものとに分け、又此祝詞に対するものとして、宣命を考へてゐた。さうして別に、寿詞《ヨゴト》に注意を向けた人は、祝詞の古いものだと称してゐた。勿論祝詞に宣下・奏上両方面のあることは、固よりである。併し元来がのりと[#「のりと」に傍線]に両方面あつたのでなく、のりと[#「のりと」に傍点]の名称の範囲が拡つて後、両方面のものが、併合せられたのに過ぎない。のりと[#「のりと」に傍線]其自体の本来の形は、宣下式であつた。さうして奏上式な部分は、寿詞《ヨゴト》の本色とする所であつた。即、のりと[#「のりと」に傍線]がよごと[#「よごと」に傍線]の分担をも兼ねるやうになり、寿詞と謂はるべきものまでも、其名称を変化させる訳にいかなかつた最後の少数だけが、よごと[#「よごと」に傍線]の称へを守り遂げたまでゞある。さうした、宣命と祝詞との間の区劃は、現実に残つたものについて言ふと、祝詞は、宣下奏上両面に渉つては居るが、ともかくも神・精霊に対して言ふものである。が、聴きて[#「聴きて」に傍点]として、人を考へてゐる場合もある。だが宣命の方は、常に人を対象としてゐる。但、生者及び過去の生存者としての人である。此は恐らくまだ神格を得ぬものに言ひかけるといふ考へを持つて居るのであらう。
生者に宣ることを原則としてゐる点から見れば、国語を以て表現した詔旨といふことになる。さうして現存の宣命は、伊勢神宮及び陵墓に告げる場合の固定したものゝ外は、常に同一の詞章を用ゐたことはなかつた。必、一つ/\の事情に適合するやうに、全然新しい文章が作ら
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