、円満な理会によつて出来たもの、と言へなくなつてゐる。用語例などにも、前代の呪詞の語義・語法を誤解して用ゐたものが多い様である。宣命の外、長歌などでも、人麻呂以後、皆模倣の中から、纔《わづ》かに新発想を出さうと努めたに過ぎない。即、叙事詩・抒情詩の用語の外に、呪詞の要素を、多くとり入れて来てゐるものなることが見られる。
呪詞の後は、正しく祝詞であるから、呪詞の持つて居た、一つの要素なる演劇分子をも含んでゐるに違ひない。唯今日において、其を見出す事の出来ぬ程、固定したに過ぎぬ。民間に於いては、早くから断篇化した様子が窺へる。譬へば、中世以来の「柳の下の祝言」など言ふ行事は、今日も諸地方に「なりものおどし」の呪文として残つてゐる。呪詞も、奏詞も、極端に簡単になつてゐるが、問答の形を、そのまゝに残してゐる。成熟を誓約する儀礼なることを見せてゐるのだ。「なるかならぬか」「なります/\」最単純なのは、これだけだが、其に鋏・鉈の類を持ち出して、切るまねをすることもあり、詞ももつと長いのもある。ともかく、片方は神役であることを忘れてゐるが、受けてはやはり、なり物の木の精霊のつもりである。星野輝興さんの採集せられた所によると、尚「かへし祝詞」を保存してゐる旧神社の古儀が少くない、と言ふことである。祝詞に対して発する受納の奏詞である。それ等も亦、極端に短くなつてゐるが、其でも、のりと[#「のりと」に傍線]本来の意義の、のり方[#「のり方」に傍点]だけの片方言ひ放しでなかつたことを、示してゐるものと謂へるであらう。
「掛合ひ」の形においてこそ、神の語も効果が予期出来るものなのである。尤、わが国信仰の最古形において、受け方が沈黙――しゞま――を固守する時代はあつたのである。此沈黙を破らせるのが、掛け方の努力であり、神及びその語の威力の現れる所でもあつた。唯、其応へが詞でなく、表象を以てせられることが多かつた。之を「ほ」「うら」と言つた。その象徴を以て、意義を判断することを「うらふ」「うらなふ」と言ふ。後、言語を以て和《コタ》へる、と考へられる時代になつて、其答詞の事を「ほ」の意義を解説すると言ふ義から「ほぐ」「ほかふ」と言つてゐる。即「ほ」を示し、同時に言語を以て其意義を明らかにし、その「ほ」に効果あらせようとするのである。此が受け方のすることである所から、誓約の形式として、掛け方を祝福
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