形づくつた――の群居とに就いて見ねばならない。此二つは、後来久しく新しい、部落を構成する理由になつて居たのである。
事実について言ふと、国家が固まつて後、複姓――小氏――の家が分立して、近所遠方に処を占めるやうになつた事の前型として、部落から岐れて、更に小邑を作る事が行はれて居るのだ。譬へば、物部氏の中に、岐れ居た土地によつて、幾流の複姓を生じ、其が後ほど族長更迭して、氏神に仕へる様になつた例と、同じ事が、他――他氏――の邑落にも多い。さうして、此等の村が、皆其々分岐の歴史よりも、寧《むしろ》互に本氏となり得る様な自由な伝承を伝へた叙事詩を、持つて居たらしいのである。中臣の一部、藤原に居たものが、藤原を氏名として、複姓としての特定の神、其氏神・郷土々着の神等を祀つた様に、又、旧族大春日氏の氏族の中心たる氏上が、時々に交替して、その都度、其族長の祀る神を拝する例だつたらしいのを見ても、村及び氏族に隆替があり、中心が常に動いてゐたことが思はれる。必しも、大氏は永久に、小氏を総べて居たとのみは言へぬのだ。此事は、小村分立の時の事情から思ひ見ることが出来る。
村の成立について、尚考へて見ねばならぬ古い事情は、職団の移動・定住の状態である。職の神聖なる長者は、宮廷式に言へば、伴造《トモノミヤツコ》であつたらしいが、其宮廷直属の、由来久しいものと信ぜられたのは、特に伴緒と称してゐたらしい。伴造の所管にある民は、伴部であるが、其団体が常に漂遊して、諸国に散在して居るのと、各処に定居して居たものとがあつた。小氏が村を作るのは、普通形式である。職団部民の方は、其に対して、さすらひ歩くのが、古い形らしく、其伴造になるものが、京に住む様になつて行つたものと思はれる。併し、其とてもわりあひ、後代に纏つた二つの様式かも知れない。まづ此様式から言へば、後世の新撰姓氏録の記載例なども、其固定した俤を伝へるものと見てよい。だから、事情によつては、可なり早く、諸処に定住した例もある。其は、後に言ふ。
これを、宮廷の上の習儀にうつして見ても、同様の事があつた。即、後世、荘園の出て来る元の形は、こゝにあつたのである。御名代部《ミナシロベ》・御子代部《ミコシロベ》など称するものは、宮廷において、新村落を分立した場合の称号であつた。而も詳しく言へば、必しも土地に固定した民団ばかりでなく、流離する職団を意味す
前へ 次へ
全20ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
折口 信夫 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング