ノ)]連※[#「虫+果」、第4水準2−87−59]※[#「羸」の「羊」に代えて「果」、33−10]に関した侏儒の本縁だ。国内の蚕を聚めゝされたのを聴き誤つて、嬰児を聚めて、天皇に奉つた為に、「汝自ら養ふべし」と仰せられたので、宮墻の下に養ふことになつた。それで小子部[#(ノ)]連の姓を賜つた、と伝へられてゐる。此文の嬰児が、単なる小児でなく、侏儒であつた事は※[#「虫+果」、第4水準2−87−59]※[#「羸」の「羊」に代えて「果」、33−12]に関する他の伝説からも説明が出来る。舎人に対して、小舎人であり、其が小さ児なることを明らかに示す為に、小さ子舎人と云つた風があつたらしい。
先の神楽歌は、其以前の生活を印象してゐる他に、別様の意義に考へられてゐたものだらう。恐らく五節・淵酔の様な場合の即興歌として歌はれたものと思はれる。此殿上童或は小舎人の起原は、もと家屋の精霊として考へられてゐたのだ。殿舎を祓へ、祝福する場合に、最重要な位置を占めるものと思はれる。此信仰の古いものは、縮見《シヾミ》[#(ノ)]細目の家の新室《ニヒムロ》[#(ノ)]宴《ウタゲ》にまれびと[#「まれびと」に傍線]久米部[#(ノ)]小楯の為に遊び歌はれた二皇子の伝説の如きものが、其適例を示してゐる。殊に其末に、殊舞をなすとあるのは、侏舞の通用或は誤字である。此につけたたづゝまひ[#「たづゝまひ」に傍線]なる訓註を「立ちつ居つの舞」の義に説いてゐるのは誤解であらう。日本紀では、二小皇子の歌舞を複雑に伝へてゐる。此点に於いて、小舎人・侏儒の芸能の様々な種目のあつたことが考へられる。
侏儒の起原を説くものらしい少彦名[#(ノ)]命に就いても、其常世の国に対する事と共に説かねばならぬ部分が多い。

     六 巫女から女房へ

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天皇賜[#二]志斐嫗[#一]御歌一首
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不聴跡雖云、強流志斐能我強語 比者不聴而、朕恋爾家里
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志斐嫗奉[#レ]和歌一首
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不聴雖謂、話礼話礼常詔許曾、志斐伊波奏。強話登言(万葉集)
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実の処、私の古い考へでは、日本文学の源を、専、巫女の託宣に置いてゐた。又、其程、重要な位置を信仰上に占めてゐたのだ。けれども、託宣は遅れて発達してゐるもので、文学の発生時代に置く事は
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