、其団長或は族長から言ふ様になるのだ。其が同時に、それらの所謂|伴《トモ》[#(ノ)]造《ミヤツコ》が、沢山の部民を率ゐる原因になるのだ。其も亦かうした古代から家々に伝承せられた詞によつて生ずるところの力であつたのだ。其一番新しい変化したものを考へて見れば、奈良朝に近づくと、元来呪詞を用ゐる所を、其呪詞の中の要部たる歌を以て代へる風が盛んになつて来た。
かう言ふ古代生活の組織を最後まで持ちこたへてゐたのは、ものゝふ[#「ものゝふ」に傍線]の階級である。而も、われ/\に考へられる、さうした様式の最後の生活者たる大伴家持の作つた物には、宮廷の御趣意を族人或は部下に伝へる積りで作つた長歌がある。その一例は次章に挙げる。繰り返して言ふと、天子がみこともち[#「みこともち」に傍線]でいらせられる事の外に、宮廷の職員として、中臣・斎部が後世まで其俤を残したことは、既に述べたが、その外に更に、部曲々々に就いて、さうした意味のみこともち[#「みこともち」に傍線]たる宰領を奉じてゐたと言ふことが出来る。顕に見えてゐる事実を挙げると、安曇[#(ノ)]連の祖大浜[#(ノ)]宿禰が、諸地方の海部《アマ》の※[#「言+山」、第3水準1−91−94]※[#「口+尨」、23−9](さはめき?)を平げた本縁によつて、海部を管理する家筋となつた。其で、海部の宰と称へたといふ。
かうして、第一次の発言者を主上とするみこともち[#「みこともち」に傍線]の用語例が、様々に岐れて来る。つまり、其伝来のみこと[#「みこと」に傍線]に依つて、其家の社会的地位は動かないのだ。処が、此呪詞が世を逐うて次第に変化し、独立すると同時に、みこともち[#「みこともち」に傍線]の呪詞としての意義は忘れて、其家独自に発生したものだ、と考へる様になる。其が更に、叙事詩化して、其種族の歴史・職業団体の歴史と云ふ風になつて来る。其一例として次の章を書いて見度い。

     四 ものゝふの呪術

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夏四月甲午朔。天皇幸[#二]東大寺[#一]。御[#二]盧舎那仏像前殿[#一]、北面対[#レ]像。皇后太子並侍焉。群臣百寮及士庶分[#レ]頭行−[#二]列殿後[#一]。※[#「來+力」、第4水準2−3−41]遣[#二]左大臣橘宿禰諸兄[#一]白[#レ]仏。三宝《サンバウ》[#(乃)]奴[#(止)]仕奉[#(流)]天皇[
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