白さがあるのです。
又、芭蕉の句に次のやうなものがあります。
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蜑が家は 小蝦にまじる蟋蟀《イトド》かな
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芭蕉も自慢してゐた句で「蜑の家に宿つてゐると蟋蟀が鳴いてゐる。そこに小蝦が干しひろげてある。その中で鳴いてゐる蟋蟀、その蜑の家。」といふだけの事で、それに、「秋の日が照つてゐる」とか、「秋の淋しさがそく/\と身に沁みて来る。」といふ風につけ加へて説くことがあつたら、私は其はさうではないと言ふでせう。
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梅 若菜 鞠子の宿のとろゝ汁
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これも、「梅や若菜の時分に、東海道を旅して鞠子の宿でとろゝ汁を吸つてゐる。」といふので、梅と若菜と、とろゝ汁のたゞ三つのあるだけの小さな天地なのです。その他何もいらない。これにつけ加へて説かうとするのは間違ひである。
私はちようどこの精神――外に何物をも容れない小世界、純粋な世界、さう言ふ小世界の存在を考へる所に、日本の芸術の異色がある――が、花の場合でも同じではないかと思ひます。広い世界を暗示する考へ方ではなく、与へられた材料だけでそれ以外に拡らず、それで満ち/\たごく簡素な世界を形作つてゐる、そこにさび[#「さび」に傍点]があるのです。私はさび[#「さび」に傍点]をさうした極平凡な考へ方で考へてゐます。そしてさび[#「さび」に傍点]は今後我々の心の一つの刺戟なのですが、併し、常にさび[#「さび」に傍点]た花ばかり考へてゐてはいけません。わびすけ[#「わびすけ」に傍点]の椿が、あのさゝやかな莟の中に何物もなく、ひそやかにふくれてゐる――あゝ言ふ小世界――それに近いものなのです。が、ともかく、さび[#「さび」に傍点]を感じるのは、日本人が極僅かの材料で、自分だけの世界を作る事の出来る習慣があるからだと思ふのです。それを他の人に見せて、他の人にもその小さな世界のよさを感じる様に導くといふ道があるのです。かう言ふ行き方は、生活の全面ではないが、多少でも人を教へようとしてゐる人の、時には持つことが出来なければならぬ心境だと思ひます。
花は恐らく、今後はさうした考へによつて進んで行くべきものではないかと思ふのです。さうすれば、花の道の未来も、明るいと思ふのです。若しその点、既に解決がついてゐましたならば、私の話は疎い話として笑つて貰つてよい。其にしても、何かの参考になりましたならば、幸ひだと思ひます。
底本:「日本の名随筆58 月」作品社
1987(昭和62)年8月25日第1刷発行
1999(平成11)年4月30日第10刷発行
底本の親本:「折口信夫全集 第十七巻」中央公論社
1967(昭和42)年3月初版発行
※底本で、「言まひせんが、」となっていたところは、底本の親本を参照して、「言ひませんが、」に改めました。
入力:門田裕志
校正:多羅尾伴内
2003年12月27日作成
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