答が行はれた痕は、万葉に明らかに見えてゐる。かう言ふ間に、相手なしに独吟する者が、次第に殖えて来た。かうした宴遊の場に於てくり返された労苦が積りつもつて、短歌成立前から兆《きざ》して居た創作動機を、故意に促す文学態度が確立した訣である。
二 奈良朝の短歌
奈良朝に入つての短歌は、其価値の問題はともかく、かうした文学作品として扱ふ事の出来るものが多い。山部[#(ノ)]赤人の作物の中、晩年の作風らしいものゝ一群には、あまりに文学意識が露出し過ぎて居るものがある。自然の中から或技巧を感ぜしむる部分を截りとつて来て見せる。其に逢著する力は情熱でなく、自然を人間化する機智である。平静な生活に印象する四時の変化の、教養ある階級の普遍の趣味に叶ふ程度の現象であり、其に絡んだ人事である。
けれども真に「美」の意識を持つてゐた事の明らかに認められるのは、赤人の作品にはじまると言える。「美」の発見、――其は大した事である。だが、美の為に自然を改め、時としては美の為に、生活を偽つてさへ居る。赤人の個性を出す事が出来た時は、既に其以前に示して居た伝統の風姿や、気魄を失うてゐた。自然を人間化し、平凡な人間の感情を与へてゐる。荒《すさ》み易い野性を、宮廷生活から放逐する為には、彼の齎した「歌ごゝろ」は、非常に役に立つて居るであらう。優美を目標とする平安中期以後の宮廷生活が、彼によつて予告せられ、導かれもした。
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春の野に菫つみにと 来しわれぞ、野をなつかしみ、一夜寝にける
明日よりは春菜つまむと標《シ》めし野に、昨日も、今日も、雪はふりつゝ
百済野の萩が古枝《フルエ》に、春待つと 来居《キヰ》し鶯、鳴きにけむかも(万葉巻八)
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此等は、美は美であつても、趣味に触れると言ふ程度のものである。
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ぬばたまの夜のふけゆけば、楸《ヒサギ》生ふる清き川原に、千鳥しば鳴く
みよし野の象《キサ》山の際《マ》の木梢《コヌレ》には、こゝだも さわぐ鳥のこゑかも(万葉巻六)
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等に見えた観照と、静かな律に捲きこんだ清純な気魄の力とは、何処へ行つたのか。前のは黒人の模倣であり、後のは人麻呂を慕つてはゐながら、独立した心境を拓いてゐる。文学態度に煩されて居ないのである。
人麻呂を手本にした「旅の歌」には、二人の間に区別のつかぬまで、よい影響を自由にとり入れてゐる。個性から出て、普遍の幽愁を誘ふものである。後期の優美歌になると、具通の美と官覚とは陳《の》べられてゐるけれど、個性の影は技巧の片隅に窺はれるばかりになつた。「百済野のはぎが古枝に、春待つと、来居《キヰ》し鶯、鳴きにけむかも」の歌は、純な拍子で統一してゐる様だ。併し「来居《キヰ》し鶯」の経験ではなくて、空想である事が、内容の側から不純な気分を醸し出してゐる。
かうした空想は、鳴き絶えぬ千鳥の声を夜牀に聴きながら、昼見た「楸《ヒサギ》生ふる清き川原」を瞑想した態度が、わるく変つて来たものである。此瞑想・沈思と言つた独坐深夜の幽情をはじめて表現したものは、高市[#(ノ)]黒人であつた。
奈良朝後半期には、長歌は既に古典化しきつてゐた。憶良の社会意識・生活呪咀などを創作した長篇なども、気魄の欠けた、律動の乏しいもので、情熱を失うてまで音脚を整へようとして、延言を頻りに用ゐるなど、態度のわるさが、すべてのよい「生活」を空な概念にしか感じさせない。反歌に移ると、生れ易《かは》つた様に自在で、多少の叙事式構想をも、律化したものが多い。
だが其短歌とても、ある点からは、先代文学にならはうとして居た。それは大伴家持等の古詞採訪に努めて居る様子、又家持自身創作に悩んで居る様などを見ても言へよう。詩形の生きて動いてゐる民謡側では、早くも又形式破壊の時を経て、再度|稍《やや》長目な自由詩になりはじめて居た。第一句は枕詞・地名・修飾辞の常場処になり勝ちで、形式的にも第二・第三句の繋りが固くなり、第一句は稍浮いた続き合ひになつて、音律を予覚しはじめてゐる。其方面に探りを入れかけた社会的傾向であつたと言ふ事も出来る。既に平安朝の「75」の基礎音脚は目ざめようとして居たことは実証出来るのだから、民謡は短歌の形から漸《やうや》く遠のいたと見てよい。そして流行に遅れた東国に於ては未だ盛んに民謡として短歌形式が行はれて居たのが、奈良盛時の状態であつたらう。其を記録したのが、万葉巻十四であるので、巻二十の東歌になると、ある部分の東びと[#「東びと」に傍線]には、創作を強ひられゝば、類型式ながら抒情表現の出来るやうな状態になつてゐたことを示して居るものであらう。
だから、東歌以外の民謡になると、新しくも大津[#(ノ)]宮以前に、大体、纏《まとま》りもし、既
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